天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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      四代目の王 アンクス・マルキウス

 戦争も少なく暗殺ではなく天寿を全うした二代目王のヌマの孫として生まれたアンクスには、ヌマ同様に彼も平和的な王になると人々は期待したが、時代はそれをアンクスには許さなかった。

 三代目王・トゥルスの32年の治世の全ては、ラテン人の母国であるアルバ攻略とサビーニ族相手の戦闘に終始したが、アンクスも叉、近隣部族であるラテン部族相手の戦闘を避けることが出来なかった。

 四代目王・アンクスは、25年におよんだ治世の間に戦闘以外にも幾つかの事業を完成させた。

 第一はテヴェレ河に初めて橋をかけたことである。
第二にはテヴェレの河口にあるオスティアを征服して塩田事業を手中にしたことである。
これはローマ人に通貨ではない通貨を与えた事になる。

 塩は誰にも不可欠な物である。
これを輸入に頼らなくてもよくなった利点は大きいのである。

 四代目の王アンクスも闘って勝った相手のラテン人やサビーニ人や、またそれ以外の民族でも、被制服民として隷属化せず、もちろん奴隷にもせず、先住民と同等の市民権を与え、有力者には元老院の議席を提供する等の、「ローマ化」するやり方を変えなかった。

 ローマは、農耕民族には良く見られるように、ゆっくりと、しかし着実に勢力圏を拡大しつつあったのである。
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by kenji1942 | 2007-10-31 11:01 | ローマ帝国の興亡
       三代目の王 トゥルス・ホスティリウス

 二代目の王ヌマの業績としては、
「王位に就いたヌマは、それまでは暴力と戦争によって基礎を築いてきたローマに、法と習慣の改善による確かさを与えようとした」
つまり、武張った傾向の強かった当時のローマ人に、人間である為の礼節を教え、自らの力の限界を知ると同時に、それを越える存在への怖れを教えようとしたのである。

 ヌマは、ローマの人々の日常に秩序を与えようと、暦の改革も行なった。
月の満ち欠けに準じて一年を12ヶ月と決め、一年の日数を355日と決めた。余った日数は20年ごとに決算されるのである。
ヌマの定めたこの暦は、1年を365日とした、カエサルによる改正までの650年間、ローマ人の日常を律することとなる。

 ヌマは宗教に関する改革もおこなった。
ローマ人の宗教は、多神教であり、異教徒とか異端の概念にも無縁だった。
戦争はしたが宗教戦争はしなかったのである。

 一神教と多神教の違いは、ただ単に、信じる神の数にあるのではない。他者の神を認めるか、認めないか、にある。
そして他者の神を認めるということは、他者の存在を認めると言う事である。

 元老院は不都合となればロムルスのように暗殺する事も出来たし、民衆の支持とて変わりやすいことでは同じである。
ヌマは、ロムルスのように軍事上の成功を持っていなかったが、治世43年の後、穏やかに他界に去った。

 ヌマの後を受けて王に選出されたのは、三代目の王 トゥルス・ホスティリウスである。
初代の王・ロムルス同様、ラテン系のローマ人だった彼は、ロムルスに似て攻撃型の男だった。

 ヌマによる内部充実の時期を経て、ローマは外部への発展の機に達していた。
ローマ人は、ロムルス以来の敗北者同化の路線は継承しても、約束を守らなかったり裏切行為をしたりする者には、容赦しないと言う路線もトウルスによって打ち立てられたのである。

 三代目の王 トゥルス・ホスティリウスは軍事力により、戦いに戦いを重ね、ロムルス以上の軍事的栄光に輝いたが、その治世32年で終った。

 ロムルスと同様に雷に撃たれての死であったという。
三代目の王 トゥルス・ホスティリウスの没後に選出された、ローマ4代目の王は、アンクス・マルキウスというサビーニ族出身者である。 

ヌマの娘を母として、ローマで生まれ育った。
祖父・ヌマの死の年には5歳であったから、王位に就いたのは37歳の時となる。
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by kenji1942 | 2007-10-30 07:13 | ローマ帝国の興亡
           二代目の王  ヌマ

 紀元前753年4月21日に新国家を建設したロムルスは、政体の確立(王様・元老院・市民集会)・他民族の女の強奪(サビーヌ族との戦闘と和解)と並行して、建国者なら当然だが、戦闘により国土の確保を行う。

 37年間にも及んだロムルスの治世の大半は、新しく誕生した国家の宿命でもある、近隣部族との戦いに明け暮れた。

 百人の兵士で一隊を組む百人隊制度を考えたのもロムルスである。
ローマ軍団の最小単位であり核であり、ローマが存在する限り、百人隊制度は存続した。

 ロムルスの統治も39年目を迎えた紀元前・715年、ロムルスはいつものように軍隊の閲兵をしていた。その時、一天にわかにかき曇り、凄まじい雷雨が襲ってきた。
しのつく雨は視界をさえぎり、耳も聾する雷鳴が辺りを圧した。

 ようやく雨もやみ雷が去った後、人々が眼にしたのは空席の玉座だった。

ロムルスの姿は何処にもなかった。
人々はいちように王は天に召されたのだと言い合った。

 ロムルスの業績を認めることは誰にも異存はなかったので、突然の不幸に動転しながらも、ロムルスをローマ国家の父とし、神として祀る事を決定した。

堂々たる実績を残したロムルスの後継者は簡単に決まらなかった。
ラテン人とサビーニ族の間での思惑もあり、叉調整役である元老院なども親ロムルス派とその反対派に分裂していた。
ロムルスは元老院によって暗殺されたとの説もある。

 ラテン派とサビーニ派の対立で膠着状態にあったローマの元老院は、ヌマに二代目の王として即位をうながした。
 
 ヌマはラテン人ではなく、先祖伝来の地に残ったサビーニ一族の一人であった。
農耕のかたわら知識探求に励む晴耕雨読の人物で、徳の高さと教養の深さはローマにも聞こえていた。

 当時としては高齢に属する40歳になっていたヌマは、はじめのうちは拒絶していたが、再三にわたる元老院・長老達の依頼に屈し、叉、市民集会の賛意も得て正式にローマの二代目の王位に即位する。

 ロムルスにも子供がいたのに、その子供が二代目を継ぐなど、当時のローマでは誰も考えなかった。
つまり、ローマの王は終身だが世襲ではない。王様と言うより終身の大統領と考えたほうが適切である。

 この終身と言う制度が、後代のローマ皇帝の暗殺が多い事由の一つとなっている。
つまり、日本・中国の皇帝にある退位・譲位制度がなく、ローマ皇帝は終身であるから皇帝の死亡をもって代替わりをすることとなり、頻繁に皇帝の暗殺が行なわれる事となる。

★★★
古代ローマ

 古代ローマは、古代にイタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家で、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国になった。
通常「古代ローマ」と言った場合は1453年まで続いた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は含まない場合が多い。

王政期
紀元前753年(建国)から紀元前510年(または紀元前509年)まで。伝説上の7人の王が治めていた期間。

 初期の4人の王はローマ建設時の中心となったラテン人とサビニ人から選ばれているが、その後の3人の王はエトルリア人出身であるとされる。これは初期のローマにおいてエトルリア人による他民族支配を受けていたことを示すと考えられている

 共和政期の初期とあわせて歴史よりも伝説の時代と捉えられている
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by kenji1942 | 2007-10-29 06:41 | ローマ帝国の興亡
          建国の王 ロムルス

 王になる前のロムルスに率いられていた3000人の羊飼いや農民たちは、ラテン語を話すラテン人であった。

 だが、ラテン語を話す民族のうちの一部族が家族ともど移住してきて、新国家を建設したわけではなかった。

 部族の移住ならば、妻子を伴うのが普通であるが、どうやら誕生直後のローマの市民の大部分は、一人身の男たちであったようである。
おそらく、ロムロスも彼らも、それぞれの部族の、はみ出し者ではなかったかと思われる。

 したがって、国家の政体確立に続いてロルムスが行なった第二の事業は、他の民族の女たちを強奪することであった。
  
       サビーニ族の女たちの強奪
 ロムルスは、近くに住むサビーニ族を祭りに招待した。
神に捧げられた祝祭日には戦闘は禁じられている。サビーニ族も一家眷属を引き連れてローマまでやってきた。

 祭りの気分も高潮した頃、ロムルスの命令一下、ローマの若者達はサビーニの若い女に襲い掛かった。
不意を衝かれたサビーニ族の男達は、妻や子供や老人達を守って自分達の部落に逃げ帰る事しか出来なかった。

 若い娘を強奪されたサビーニ一族は戦闘を宣言する。
ロムルス達は強奪した娘達を奴隷にしたりせず、正式に結婚して妻として相応な待遇を与える一方、4度にわたるサビーニととの戦闘に勝利する。

 サビーニ一族との戦いに勝利したロムルスは、併合ではなく両部族が対等な立場で合同する和平を提案する。
それもサビーニの全部族をあげてローマに移住する事を提案し、ローマの七つの丘の一つであるクィリナーレの丘があてられた。

 また、敗者ではあるがサビーニ一族の自由民全員には、ローマ人同様の完全な市民権が与えられ、サビーニ族の長老達には、元老院の議席も提供された。

 若きローマ建国の王としての、ロムルスにしてみれば、人口の増加と兵力の増大を望むが故の策であったが、このことが後々偉大な成果を呼ぶ基となって行ったのである。

 ブルタルコスは「列伝」の中で次ぎのように述べている。
敗者でさえも自分達に同化させるこのやりかたくらい、ローマの強大化に寄与した事はない


伝説
★★★
 紀元前753年4月21日、ロムルスは即位し、ティベリス川(テヴェレ川)の畔に都市ローマを建設した。

 やがて、ローマが隣に住むサビニ人の丘の村娘たちを祭りに招待したとき、娘たちを急に抱きかかえて自宅まで逃げてそのまま帰さなかったことを発端に、戦となった。

 娘たちは隣の丘の男たちに、自分たちは妻としての扱いを受けており、決して虐げられていないので争いをやめて欲しいと懇願したため、サビニ人の王ティトゥス・タティウスは和平を承諾し、さらにはロムルスのすすめで一緒にローマに住み共同統治することになった。
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by kenji1942 | 2007-10-25 09:35 | ローマ帝国の興亡
    ローマ建国の王 ロムルス

 紀元前・753年4月21日。
神々に犠牲を捧げての式を厳かにすませる。

双子の弟・レムスが死んで一人だけの王になったロムルスは、まず始めに、ローマの丘・パラティーノの周囲に城壁をめぐらせ、都市建設の意思表示とした。

 このローマ帝国の建国記念日は、以後1000年以上もの長い歳月、絶えることなく毎年祝われる祭日になった。

 その年、ロムルスは18歳。
この若者と彼についてきた羊飼いや農民達三千人のラテン人によってローマは建国されたのである。

 ローマを建国し、初代の王となったロムルスは国政を三つの機関に分けた。

  王様・・元老院・・市民集会の三本柱がローマを支えるのである。

 宗教祭事と軍事と政治の最高責任者である王は、市民集会で投票で選ばれると決まった。
つまり、市民集会による王様の選出と言う、あまり王政的でない制度である。

 百人の長老達を集め、彼らを構成員とする元老院を創生した。
元老院議員は政府の役職ではなく、王様に助言するのが彼らの役割である

 市民集会は、ローマ市民全員で構成された。
 王様をはじめとする政府の役職者を選出するのが役割である。但し、市民集会は政策を立案する権利はなく、元老院の助言を受けて王様が考えた政策を、承認するか否決するかが問われるだけである。

 戦争をする時も彼らの承認を必要としたし、講和する際も彼ら市民集会が承認してはじめて、効力が発揮されるのであった。

★★★
伝説

 狼の乳を吸うロムルスとレムスの像トロイア戦争で敗走したトロイ人のアエネイアスの息子アスカニウスが、イタリア半島に住みつき建設した都市アルバ・ロンガの王プロカは長男ヌミトルに王位を譲って死んだが、ヌミトルの弟アムリウスは兄の王位を簒奪し、ヌミトルの息子は殺され、娘レア・シルウィアは処女を義務付けられたウェスタの巫女とされた。

 ある日シルウィアが眠ったすきに、ローマ神マルスが降りてきて彼女と交わり、シルウィアは双子を産み落とす。 
怒った叔父の王は双子を川に流し、双子は最初狼に、その後羊飼いに育てられ、ロムルスとレムスと名づけられた。
成長し出生の秘密を知った兄弟は協力して大叔父を討ち、追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力する。兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとする。しかし兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺される。この丘に築かれた都市がローマであった。

 
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by kenji1942 | 2007-10-24 09:06 | ローマ帝国の興亡
 古代ローマ人は、自分たちの事を、

知力ではギリシャ人に劣り、
体力ではケルト(ガリア)や、ゲルマンの人々に劣り、
技術力では、エトルリア人に劣り、
経済力では、カルタゴ人に劣るのが、

自分たちローマ人であると、ローマ人自らが認めていた。

であるのにも拘らず、ローマ人は大帝国を築き、一大文明圏を1000年の長期にわたって維持したのである。

 政治大国・経済大国・軍事大国・そして巨大な多民族国家で、史上初の超大国。
なぜローマ人だけが、これほどの大をなすことが出来たのであろうか。

叉、江戸幕府も中国の覇者・明帝国も300年前後で衰亡しているが、大ローマ帝国も歴史の例外にはなりえず1000年で衰亡している。

 このことは、覇者の陥りがちな驕りによってであろうか。
さまざまな人種・言語・宗教が混在した巨大なローマ帝国を束ねることができた鍵は、これまでは、ひとえに強大な軍事力にあったとされてきた。

 はたして軍事力だけで、広大な土地と民族を支配できたのであろうか。

★★★
 ローマ帝国の起源は、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がテヴェレ川のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。

 当初はエトルリア人の王を擁いていたローマはこの異民族の王を追放して王政を経た後に、貴族による共和政を布いており、2名のコンスルを指導者とする元老院が大きな力を持っていた(共和政ローマ)。
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by kenji1942 | 2007-10-23 21:47 | ローマ帝国の興亡
 桶狭間の戦い(1560)の折、今川軍が鷲津・丸根の砦に攻めかかった事を聞いた織田信長は、一節謡ながら舞うと、猛然と出陣したと言う。

「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
             ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」

 (人間の一生は所詮五十年に過ぎない。
天上世界の時間の流れとくれべたら、まるで夢や幻のようなものであり、命あるものはすべて滅びてしまうものなのだ。)

 この謡は「幸若舞・叉は(曲舞・くせまい)」と言う、室町時代から流行しはじめた伝統芸能で演じられる作品「敦盛」の一節なのである。

 「敦盛」の粗筋は・・・
(1184年)時は源平合戦の真っ只中、源の義経(26歳)が率いる源氏の軍勢は、一の谷の崖下に陣を構える平家軍を急襲し、逃げ遅れた一人の武者が源氏方の猛将、熊谷直実(44歳)に捕まった。

 直実はこの敵将がいまだ歳若いことに心を痛めたが、もはや逃がす事もかなわぬと、泣く泣く首を打った。少年の名は平の敦盛(16歳)。平の清盛の弟・平の経盛の息子であった。 

 熊谷直実は後に世の無常を観じて出家する事になるのだが、
「人間五十年、夢幻・・・・」は、この熊谷直実の嘆きの言葉なのである。

 つまり、元々この台詞は人生のはかなさや世の無常を語るものであり、信長が出陣にあたって口にする「覚悟」の台詞とはいささか赴きがことなるように思える。

 信長の場合は「どうせ人生は五十年しかないのだから、死ぬ気になって思い切ってやってやろう」と言った、非常に勇ましい感情がこの言葉に込められているようである。
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by kenji1942 | 2007-10-03 10:17 | ブログ 信長

 織田信長は幸若の「敦盛」が好きで 、桶狭間でも本能寺でも「人間五十年・・」を詠ったとされています。

 有名な
  「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 
              一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか」


 ここまではよく知られていますが、その後に

 「これぞ菩薩の種ならむ これぞ菩薩の種なる」
というくだりがある。

 いたずらに生に執着するのではなく、潔く現世を諦めて、次の生に期待をつなげようとしている。

 つまりこれは「再生」ということである。

ただ実際に生まれ変わっても、自分の前世に関する意識を人間はもてないのもまた事実である。
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by kenji1942 | 2007-10-02 11:27 | ブログ 信長