天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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<   2007年 11月 ( 8 )   > この月の画像一覧

         執政官・ブルータスの戦死 

 ブルータス達の働きによって打ち立てられた共和制に不満を持つ、ローマの名門・貴族の若者達は追放されている七代目王・タルクィニウスを呼び戻すと決定し、各人の血の署名付きの誓約書まで作り、「王政復古」の謀反を企てる。

 しかし、この謀反は一人の奴隷による密告でもろくも全員逮捕で終る。
その若者達の中には、執政官・ブルータスの二人の息子も含まれていた。

 ただちに召集された市民集会で、国家反逆罪と断罪され、首謀者とみなされたブルータスの息子二人はムチ打たれた後、斧で首を斬られた。
 
 かくして、先王タルクィニウスは王位への復帰は失敗したが、まだまだ諦めず、亡命先のエトルリア地方の諸都市を精力的に廻り、武将としての力量を基に軍勢を貸してくれるように説得する。

 エトルリア地方の二つの都市が追放中のタルクィニウスに援軍を約束したので、軍勢を率いて南下してローマ軍と戦う事となった。

 迎え撃つローマ軍は、執政官・ブルータスが騎兵隊を、歩兵軍団はもう一人の執政官・ヴァレリウスが指揮を執る。

 エトルリア軍の騎兵隊は、先王タルクィニウスの長男アルンテスが率いていた。
迎撃するローマの騎兵隊を見つけたアルンテスは、ブルータスに向かって指揮官同士の一騎打ちを提案する。

 大将同士の激しい撃ち合いは暫らく両軍の兵士のみまもる前で続いたが、力は伯仲していた。・・・が・・殆ど同時に二人の大槍が相手の胸深くつらぬき、そしてくし刺しになった姿のままでもんどりうって落馬した。

 (508B・C) ここにローマ共和国・初代執政官・ブルータスは戦死する 

 騎兵隊の激闘に続いて、追いついた歩兵軍団の間でも戦いは続く。
もう一人の執政官・ヴァレリウスが指揮するローマの歩兵に対して、エトルリアの歩兵を指揮するのは武将としての手腕の高い先王・タルクィニウスである。

 戦闘は日が落ちるまで続き、歩兵軍団の勢力は伯仲していた。
自領内に引き返した両軍の陣営には、その夜のうちに奇妙な噂が広まっていた。
ローマ軍の戦死者の数よりもエトルリア側の戦死者の数が一人だけ多く、戦いはローマ側の勝利に終るという風聞だった。

 兵士達は、それを「神の声」だと信じた。
翌朝、ローマ軍は戦場に戻ったが、先王タルクィニウスとエトルリア軍の姿は何処にも無かった。

 かくして、もう一人の執政官・ヴァレリウスは四頭の白馬を駆って、ブルータスの遺体と共にローマに凱旋する。

 ローマ共和制の創始者にして初代執政官・ブルータスの壮烈な戦死に際して、ローマ市民はブルータスを国葬で遇し、 ローマの女たちは、父親が死んだ時と同様に一年間の喪に服した。
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by kenji1942 | 2007-11-25 21:00 | ローマ帝国の興亡
          クーデター 王政復古を謀る

 ローマの元老院は終身制である。
古代ローマ創始者・ロムルスの時代には元老院議員は100人であったが、五代目王・ブリスコによって倍増されていたものを、ブルータスによる共和制移行に際して、新興勢力に属する有力家門の家長を取り込み100人増員し、合計300人として元老院の機能を強化した。

 ローマの有力な家門の若者達の間で、元老院に対して一つの不満が頭をもたげつつあった。
ブルータス改革によって元老院議員になった親たちはよい。元老院議員で無かった者までが、議員に任命され、執政官になれる可能性まで生まれたのだから満足している。

 しかし、若者としては、元老院が終身制のため、家長になり元老院に入れるようになるには、家長の死まで待たなければならない。

 だが、王政時代には、王様の気持ち次第で、抜擢される可能性が充分にあったのである。
名門の若者たちは、共和制に移行した結果、自分たちの活躍する機会が減ったと感じ、それが不満だったのである。

 秘かに仲間の一人の家に集まった若者達は、追放されている七代目王・タルクィニウスを呼び戻すと決定し、各人の血の署名付きの誓約書まで作った。
つまり、「王政復古」である。

 しかし、この謀反は一人の奴隷による密告でもろくも全員逮捕で終る。
その若者達の中には、執政官・ブルータスの二人の息子も含まれていた。

 ただちに召集された市民集会で、国家反逆罪と断罪され、首謀者であるブルータスの息子二人はムチ打たれた後、斧で首を斬られた。
 
 かくして、先王タルクィニウスは王位への復帰は失敗したが、まだまだ諦めず、以後武力へ訴え軍事行動をとり、ローマへ戦いを挑んでいく事となる。
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by kenji1942 | 2007-11-15 10:14 | ローマ帝国の興亡
       ローマ共和国 二人の執政官

 ルキウス・ユニウス・ブルータスは、王を追放した直後フォロ・ロマーノに市民たちを集め、その場で全員に、以後ローマは「いかなる人物であろうと王位に就くことは許さず」、叉「いかなる人物であろうとローマ市民の自由を犯すことを許さない。」・・と誓わせた。

 そして王に代わる国の最高位者として、一年ごとに市民集会で選出される、二人の執政官の制度を創設したのである。
 第一回目の執政官に選ばれたのは、ブルータスと、自殺したルクレツィアの夫のコラティヌスだった。

 権力の三極構造としては、
執政官・元老院・市民集会の三本柱である。

 一人の王が行なってきたことを、専横を防ぐ目的から二人で行なう事になった執政官だが、再選は許されるにしても任期は一年と短い。

 元老院議員の任期は終身である。
一年の任期で次々と入れ代わる執政官を輩出できる機関は、有力家門の家長の集まりである元老院であるが、権威と権力も、元老院ならば不足は無かった。

 ローマ市民権を持つものなら誰でも参加できる市民集会。

 つまり、王政時代の三極構造(王・元老院・市民集会)のうち、王様が執政官に変わっただけで権力の三極構造はそのまま続くのである。

★★★
王政から共和政へ(BC509年~BC270年)
 エトルリア系の王タルクィニウスを追放したローマは、終身の王に変わり任期1年の2人の執政官が治める共和政へとBC509年に変わった。
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by kenji1942 | 2007-11-13 21:32 | ローマ帝国の興亡
              ローマ 共和国に

 私的なスキャンダルを巧みに利用し、王政打倒にまで持っていった最大の功労者は、ルキウス・ユニウス・ブルータスである。
 ブルータスは、以後500年もの間続く、共和制ローマの創始者になった。

★★★
ルキウス・ユニウス・ブルートゥス

 ルキウス・ユニウス・ブルートゥスは共和政ローマの実質的な設立者。
紀元前509年、第七代ローマ王タルクィニウス・スペルブスを追放して共和政を布き初代コンスルとして就任した。

 ブルートゥス家はタルクィニウス王家に対して憎悪を抱いており、元老院で強力な指導力を発揮し始めたルキウスの兄弟が殺害されるなど深刻な対立関係にあった。

 王家による危険分子への粛清の嵐が吹き荒れる状況の中、ルキウスはわざと愚鈍な人間を装い、王家の粛清を逃れる事に成功した。

 国王タルクィニウスはルキウスを無能だと侮り、彼なら自分の王位への脅威にはならないと判断して自らの側近に取り立てた。

 彼の名「ブルートゥス」は「阿呆」の意味であり、これは彼がいかに軽く見られていたかを物語っている。
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by kenji1942 | 2007-11-12 19:32 | ローマ帝国の興亡
      古代ローマ最後の王・「尊大なタルクィニウス」

 六代目王・セルヴィウスの実り多かった44年の治世も、娘婿・タルクィニウスの野望によって暗殺される事で終焉を迎える。
 
 七代目の王・タルクィニウスは先王・セルヴィウスの葬儀を禁じたり、先王派と見られていた元老院議員たちを殺した。
武装した護衛に囲まれていなければ外にも出なかった彼は、市民集会での選出も元老院での承認もなく王位に就いたのである。

 市民達は彼のことを、独裁的で専制君主の振る舞いにより、陰で「尊大なタルクィニウス」と呼んでいたが、軍事の才能は優れていて周辺部族との戦いでは常勝を続けていたので、タルクィニウスの治世は25年に及ぼうとしていた。

 ちょうどその頃、タルクィニウスの支配力・軍事力の源泉であったエトルリア人の勢力が衰えを見せ始めていた。
勃興してから100年におよぶエトルリア民族の力が後退期に入っているのをタルクィニウスは気がつかず寄りかかっていたのである。

 スキャンダルは、力が強いうちは攻撃してこない。
弱みが現れた塗炭に直撃してくるのである。それが当人とは無関係な事でも、有効な武器でありうる点では古今東西変わりはない。

 王・タルクィニウスの息子の一人が、親族のコラティヌスの妻・ルクレツィアに横恋慕した挙句に手篭めにして自害させた事件が勃発する。

 変事を聞いて戦場からかけ戻った夫のコラティヌスと友人・ユニウス・ブルータス達は、ローマ市民を集結させて、タルクィニウス王とその一族の野蛮と傲慢を非難し、王と王の一家全員をローマから追放する事を提案する。 

 それまでくすぶっていたローマ人のタルクィニウスへの不満が爆発し、ブルータスの提案に大歓声で賛意を示した民衆は、市民兵結集の呼びかけにも応じた。

 その頃、戦場にいたタルクィニウスも変事を聞いてローマに引き返したが、彼の前にローマの城門は閉ざされたままで「追放に決定した」と告げられたのである。

 タルクィニウスは殺される事は無かったが、再起をきして息子二人と自分に従う兵士だけを連れ、エトルリアの一都市カエレを頼って落ち延びていった。

 かくして古代ローマ・七代目の王「尊大なタルクィニウス」の治世も25年にして終り、ローマの王政時代も終焉を迎える。

 ロムルスが建国した紀元前・753年から数えて244年目の前509年の事であった。

 これ以後、ローマは共和制時代に入る。

共和政時代には
二人の執政官が統治する。
執政官は任期は一年で市民集会で選ばれることとなる。

 ★★★
ローマ帝国概略史

ローマの誕生(BC753年~BC509年)

 伝承によるとティベレ川の7つの丘のほとりにBC753年4月21日にロムルスによって建設されたのが都市国家ローマの始まりとされている。
この時をもってローマの歴史がスタートする。初期のローマは王政であった。

 ただし、現在ような終身ではあるが世襲制ではない。
王政は7人の王によって治められた。
建国者ロムルス。
法を整備したヌマ。
ローマの対外方針の基礎を作ったトゥリウス。
地中海への出口を持ったアンコス・マルティウス。
ローマを技術的に整備し都市としての機能を完成さしたタルクィニウス・プリスコ、
ローマを城壁で囲い、軍事制度を改革したセルヴィウス・トゥリウス。
そして、尊大なる王タルクィニウス。

 これら7人の王によってローマは244年間統治された。
そしてこの時代にローマの基礎はできるのである。
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王政から共和政へ(BC509年~BC270年)
 エトルリア人の王タルクィニウスを追放したローマは終身の王に変わり任期1年の2人の執政官が治める共和政へとBC509年に変わった。

初代の執政官はタルクィニウスの追放に尽力したルキニウス・ユニウス・ブルータスとコラティヌス。
こうしておよそ500年にわたる共和政がスタートする
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by kenji1942 | 2007-11-09 10:59 | ローマ帝国の興亡
       七代目の王 タルクィニウス・スペルブス

 暗殺された先王タルクィニウス・ブリスコの後を継いだ六代目の王セルヴィウス(先王の実の息子でなく娘婿)の統治は巧みで44年が無事に過ぎていった。

 しかし、王・セルヴィウスも44年におよぶ長い多忙な治世の後の疲労と老いが隠せなくなっていた。

 勝気で野心家のセルヴィウスの娘・トゥーリアと五代目の王の孫・タルクィニウスを結婚させたのであるが、二人は野望にもえて父王・セルヴィウスを暗殺する。
かくして、タルクィニウスはローマ七代目の王となり、トゥーリアは王妃になった。

 七代目の王・タルクィニウスは先王・セルヴィウスの葬儀を禁じたり、先王派と見られていた元老院議員たちを殺した。
武装した護衛に囲まれていなければ外にも出なかった彼は、市民集会での選出も元老院での承認もなく王位に就いたのである。

 タルクィニウスは、その後も元老院に助言を求める事も、市民集会に賛否を問う事もしなかった。
市民達は陰で彼のことを「尊大なタルクィニウス」と呼んでいた。

 国内では独裁的な専制君主ローマ七代目王・タルクィニウスも、軍事の才能は優れていた。
周辺の部族との戦闘では、和戦両用を駆使しながら勝利に持っていく彼のやり方は巧みだった。

 勝つのは常にローマのほうだったがその性格どおり陰険でもあった。
ずる賢く、したたかでなければ王位を保つ事は至難の技であることは当然であったろう。
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by kenji1942 | 2007-11-07 09:06 | ローマ帝国の興亡
        六代目の王 セルヴィウス・トゥリウス

 五代目の王・タルクィニウスはエトルリア文明を駆使し、大規模土木事業・経済の活発化などをはかり人々の生活の向上に大いに寄与した。
したがってその治世が37年を迎えても、いまだ市民達の人気は高く元老院の評判も良かった。

 しかし、先の四代目王・アンクスの息子二人は王位の簒奪をはかり、タルクィニウスを暗殺する。

 王を暗殺された妻には二人の息子がいたが、タルクィニウスが生前目をかけていた、利発さと勇気のある娘ムコのセルヴィウスに声をかけ王位を手中にしてしまうように勧めた。

 このような事情があって、第六代のローマ王になったセルヴィウスは、市民集会での選出を経ずに、元老院での決議だけで王に即位したのである。
 
 六代目王・セルヴィウスは,ローマの七つの丘全てを囲いこむ大規模な城壁を築く。
これで防御は完全になり、外部への軍事的成功もあいまって、この頃のローマは周辺の部族のなかでも一頭地を抜く存在となっていった。

 また、セルヴィウスの為した業績のうちでも最も重要なものは、軍政の改革である。
国民の義務は税金を払う事であり、国を守ることでもある。

 古代ではローマに限らずギリシャでも、直接税は軍役を務めることで支払うのが普通であった。
軍政の改革は人口調査を伴う、税制の改革・選挙制の改革でもあったのである。

 セルヴィウスは強力な戦法を確立した。
当時の戦いはただがむしゃらに押しまくるだけであったが、ローマ軍は、騎兵に機動部隊の役割をあたえ、歩兵を前衛・本陣・後衛に三分し、、隊列も乱さずに攻めまくるので周辺の部族との戦いも勝利に次ぐ勝利の連続であった。

 かくして暗殺された先王タルクィニウス・ブリスコの後を継いだ六代目の王セルヴィウスの治世は44年と言う長きに及んだのである。
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by kenji1942 | 2007-11-06 11:00 | ローマ帝国の興亡
        五代目の王 タルクィニウス・プリスコ

 ローマでは、住みつく気さえあれば市民権を貰える事は、その頃では他国でも知られていた。叉、二代目の王・ヌマや四代目の王・アンクスの例が示すように、建国の当事者であるラテン人でなくても王になれるという事例も世に知られていたのである。

 いまだ四代目の王・アンクスの時代のローマに、牛に曳かせた荷車を何台も連ねた異邦人の一家が入ってきた。
この一家の当主であるタルクィニウスは、ギリシャ人の父とエトルリア人の母を持つ混血児である。
 
 タルクィニウスは純血主義を好むギリシャとエトルリアでは生涯異邦人である事から抜けられず、地位の向上など絶望と見てエトルリアの外で運を試そうと決めたのである。

 タルクィニウスは、両親から相当な財産を受け継いでいたので、この財力と彼自身の類稀なる才能をもって、10年も経たない間に、この元異邦人は王・アンクスの遺言執行者に指名されるまでになっていた。

 しかし、タルクィニウスは公証人では満足せず、王アンクスの死後自ら王に立候補したのである。

 市民集会で「自分は他国からの移住者だが、妻子ともども全財産を持ってローマに来て、ローマに骨を埋める気は充分あるし、年齢も責任ある公職に就くには適しており、先王・アンクスの信頼も厚く、ローマの神々を敬いローマの法を尊重する事でも他者に遅れを取らない自信はある」・・と大演説をする。

 市民集会は、このタルクィニウスを圧倒的多数で王に選出した。叉、元老院も問題なく承認する。

 ローマではじめてのエトルリア系の王の登場である、五代目王・タルクィニウスは、実に有能な指導者である事を示した。
エトルリア人の進んだ干拓の技術・下水溝工事・道路舗装の技術、神殿のような大規模な石造建築を可能にする技術などの、エトルリア文明を積極的に導入したのである。

 経済は活発になり、商工業の活性化によって人々の生活も向上する。
かくして、タルクィニウスの 37年間に及ぶ治世の間にローマの勢力圏は一段と拡張されただけでなく、ローマの内部もはじめて都市の名に恥じない都市に変貌し、叉、市民の生活水準も飛躍的に向上することとなった。


  
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by kenji1942 | 2007-11-05 08:59 | ローマ帝国の興亡