天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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 古代ローマの官職  独裁官(ディクタトール

共和政ローマでは、戦時の非常事態、疫病の大流行、内乱など、ローマの非常事態に任命される官職で、臨時の独裁執政官を意味する。 他の官職が選挙で選ばれるのに反して、独裁官だけは、二人の執政官のうちの一人が指名するだけで成立した。

 定員は一人で任期は6ヶ月と短いが、独裁官が、決めたことは誰も反対できないと決まっていて、執政官クラスの能力に優れた経験豊かな人物が指名されるのが常であった。

 古代ローマの官職  法務官(プラエトル)   
執政官のすぐ下に位置して、司法関係を担当する高級政務官職。
由来としては、元々執政官の3人目 の同格者として設定され、ローマに残って国政を指揮する役割を担っていたと考えられる。

 執政官不在時の首都ローマでの市民集会は、法務官によって召集され、彼が議長を務めた。

 
 その他に、会計検査官(クワエストル)・財務官(ケンソル)・按察官(エディリス)・護民官(トリプーヌス・プレビス)・元老院(セナートゥス)がある。
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by kenji1942 | 2008-01-25 20:03 | ローマ帝国の興亡
          古代ローマの政体・・・・執政官(コンスル)

 執政官(コンスル)は、王政時代の王に代わる共和制ローマの最高位の官職で、市民集会で選出され、元老院の承認を受けて就任するまでは王と同じだが、終身制であった王と比べ、任期は一年と短い。

 但し、定員は二名で再選は許されており、年齢上の資格は四十歳が下限とされた。

 執政官二人ともが同意しなければ政策は実施されない、つまり、執政官同士で、互いの考え方、叉やり方に同意できなければ、拒否権を行使する権利が与えられた。

 執政官の主な任務は、市民集会を召集することであると同時に内政の最高責任者であり、叉戦場での指揮をとることであった。
つまり、首相兼防衛大臣兼統合参謀本部長で、あわせて前線の司令官でもあった。

 王政時代に王が持っていた権威と権力を継承したのだから、執政官には、王政時代の王様の露払いであった、斧の柄に棒の束を縛り付けたものを捧げた十二人の警士を先駆けさせる権利も継承して、何処へ行くのにもこの十二人が従った。

 このように、共和制ローマ時代の執政官(コンスル)は大変な権威と権力を持っていたのである。
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by kenji1942 | 2008-01-24 16:18 | ローマ帝国の興亡
         政治改革  貴族対平民 

 紀元前390年のケルト族来襲でローマの受けた打撃も、ローマ軍団の傑物・カミルスの働きによりニ十年も過ぎればひとまずの応急対策は終了する。
雑然とはしていてもローマは再び人の住める都市に戻り、外敵も蹴散らされ、国境もまずは安全と言う所まで戻った。

 しかし、大きな問題点が横たわる。
古代ローマの王政から共和制への移行時から続く大きな問題点、すなわち貴族対平民の抗争である。

  国家存亡の危機が続くうちは貴族と平民の争いも鳴りを潜める。
しかし、ひとまずにしても危機が去れば内紛は叉再燃する。戦時には一致団結するが、それが終るや国内での抗争が再開されるのがローマの常であった。

 ローマにとっては未曾有の大敗北・「ケルト・ショック」。
蛮族の来襲に打つ手もなかった敗北の原因の最たるものが、国内の不統一であり、その解決を先送りする事は、紀元前390年の大惨事を経験したローマ人にはもはや許され無い事であった。

 賢明なローマ市民が選んだ政治改革の決断は、従来貴族階級が独占していた共和国政府の全ての要職を平民出身者にも解放する事であった。

 役職を貴族別・平民別と分けるのではなく全面解放である。
つまり完全な自由競争であり、選挙の結果、執政官は二人とも貴族になる事もあるし、反対に二人とも平民で占められる場合もあるであろう。

 叉、貴族階級の牙城であったローマ元老院も平民に解放。
経験と能力があれば、氏も素性も問われないのである。そして極めつけは、ローマを守る神々を祀る、祭事を執り行う役職にも平民階級が進出した。

 「ケルト・ショック」と言う、未曾有の大惨事の後に、まさに「政治改革」と言う名に相応しい賢明な決断であり、人材と言う資源の有効な活用に適したしシステムを生み出したと言える。

まさに、 「雨降って地かたまる」 である。

また、あわせて瞠目すべき政策もある。
  古代ローマのロムルスが建国して以来の、ローマの伝統である、「ローマは、敗者を隷属化するよりも、敗者を『共同経営者』にするという、当時では他国に例を見ない政略を選択した。
そして、これこそ、後世に有名になる、『分割し、支配せよ』の考え方であった」。

 この政策があればこそ、ローマの長期隆盛があったのである。
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by kenji1942 | 2008-01-21 05:30 | ローマ帝国の興亡
       二代目の建国者マルクス・カミルス

 ローマ人に鉄槌をくだした紀元前390年の「ケルト・ショック」以後のローマにおいては、軍事で解決できる問題ならばカミルスの功績は大である。

 古代ローマの初代建国者・ロムルスについで、ローマの二人目の建国者と賞賛された軍団の英雄・マルクス・フリウス・カミルスは、名門とは言えなかったが、ローマの貴族の出身だった。

 蛮族の立ち去った後にローマ人が最初にしたのは、カミルスを呼び戻すことだった。
亡命先で祖国の惨状を思いやろうとも、カミルスは、公式の帰国命令なしには帰れない身だったのである。

 ケルト人の暴虐の嵐からローマが立ち上がるまでに40年間を要するのは、蛮族の前になす術も無く敗れ去ったローマを近隣の部族が見放したからであった。
ラテン同盟も空中分解である。
それどころか、昨日までの同盟国は、この機に乗じてローマを滅ぼそうとする敵に変わったのである。・・・・・まさに日本の戦国時代と同じである。

 ローマは建国から360年後に、叉、共和制に代わってからは百年後に、またもや一からやり直さなければならなかったのである。

  ローマ軍団の英雄的武将・カミルスは戦闘に勝つためにはケルト人の戦法すら模倣した。
堅固で住み心地も考慮した宿営地を建設する一方、武器、武装、戦略なども改変して、遂にローマ軍団を常勝軍団として立て直したのである。

 カミルスは人格公正で信義に厚く、現状認識能力に優れると共に先見性も備え、組織力と実行力に秀でた人物であった。
その上、ローマの武力に屈した敗者にも寛大で、狂信的な性向は少しも無かった。

 ケルト人に無様に敗北したローマに見切りを付けて離反した以前の同盟部族をもう一度ローマの傘下に戻すのに、カミルスのこの性格は大いに有効であった。

 かくしてローマはどん底に落ちて、、叉再建に立ち上がるのであるが、ギリシャ人の歴史研究家はこのケルト族襲来での「ケルト・ショック」をローマが強大になり始める第一歩として重視している
  
 嗚呼!! 『艱難(かんなん) 汝を玉にす

まさに、このことは洋の東西を問わず、叉、国にも個人にもいえる言葉である。!!
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by kenji1942 | 2008-01-19 16:07 | ローマ帝国の興亡
             立ち上がるローマ

紀元前390年の夏。
アペニン山脈を超えたケルト人(ガリア人)は、進軍の道筋にあるエトルリアの諸都市を攻略しながら暴虐の嵐となってローマを目指して南下。ローマ軍団は必死に戦ったがあっけなく敗れ去る。  

 ケルト人達は、抵抗する者もいなくなったローマで、残虐の限りをつくし、ローマ人は地位の差も性別も年齢の差も無く、殺され、暴行され、略奪され、奴隷にされた。
神殿も元老院議場も、広壮な屋敷も市場も破壊され炎上した。
その悪夢のような情景を、籠城した男達はカピトリーノの丘の上から呆然と眺めるしかなかった。
   
 300キロの金塊を身代金として払うからと言う屈辱的な条件を飲んで、ようやく七か月ぶりにケルト人にお引き払い願ったローマは、ただちに再建に取り掛かる。

第一に、防衛を重視しながらの破壊されたローマの再建。
第二に、離反した旧同盟諸部族との戦闘と、それによる国境の安全確保。
第三に、貴族対平民と抗争を解消することでの、社会の安定と国論の統一。

これは必然的にj政治改革を意味することとなった。

 ケルト人は蛮族だけにいつ再び襲ってくるかわからないので、ローマの七つの丘をぐるりと囲む城壁を堅固に再構築し、あわせて下水道も整備する。
城壁は以前の形をとどめない程の大規模な建設で、城壁の要所に築かれた見張りようの塔には監視兵が常駐する。

 しかし、堅固な城壁は完成したが、最上の防御は攻撃にあるとして、政争に破れてローマを追放されていた貴族出身で軍団の英雄・マルクス・フリウス・カミルスを、亡命先から呼び戻し独裁官(ディクトール)として起用する。

 カミルスはその期待に大いに応えて、戦闘においては戦勝に戦勝を重ね、ロムルスに次ぐローマ第二の建国者とさえ讃えられる程の大活躍をするのである。

 かくして「ケルト・ショック」に見舞われ、蛮族に好きなようにされて自信を失っていたローマ市民に叉自信を回復させたのである。

 
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by kenji1942 | 2008-01-18 11:02 | ローマ帝国の興亡
             ローマの陥落と籠城

 紀元前390年の夏。
アペニン山脈を超えたケルト人(ガリア人)は、進軍の道筋にあるエトルリアの諸都市を攻略しながらローマを目指して南下を始めた。

 彼らに襲撃されたエトルリアの諸都市からは、ローマに援軍派遣の要請が頻々と来る。
ローマにとっては、長い間防波堤になっていたエトルリアの強国・ウエイをローマ人が10年の攻防の末に滅ぼしてしまったので、もはや立ちふさがってくれる山も河もない。
 
 ケルト人の勇猛・残虐さは、ローマ人にも伝わっていた。
「ケルト人はラテン族やサビーニ族のように、戦闘の後でも我々の同盟国になれるような民族ではない。彼らは強暴なケダモノだ。
殺さなければ、我々ロ-マ人が殺される」

 ローマはパニックに陥ちいる。
ケルト人の南下の少し前から始まったローマの貴族と平民による政争によって、軍の総司令官も空席、軍勢の半ばも脱退と言う状態のローマを悲劇が襲う。

 ローマ軍団は必死に戦ったがあっけなく敗れ去り、建国以来初めてケルト人のローマ占領と言う屈辱をなめる。

 ローマは国をあげてのレジスタンスは不可能であると判断して、若者と壮年期の男達だけが、ローマの七つの丘では最も高く狭い為に防御の容易なカトリーヌの丘に籠城する事となった。
  狭い丘で籠城の人数が限られているので、切捨て組みがでても致し方が無かった。
元老院議員でも、老齢の者は加われない。
女子供も籠城組みに選ばれたものの妻子だけは籠城を許され、それ以外は運命にゆだねられた。
 
 ケルト人達は、抵抗する者もいなくなったローマで、残虐の限りをつくしていた。
ローマ人は地位の差も性別も年齢の差も無く、殺され、暴行され、略奪され、奴隷にされた。

 神殿も元老院議場も、広壮な屋敷も市場も破壊され炎上した。
その悪夢のような情景を、籠城した男達はカピトリーノの丘の上から呆然と眺めるしかなかった。 

 新しく軍団を編成してローマを奪回するだけの力量をもったローマ軍団の英雄・カミルスは、政争によってローマ人自身が追放してしまい、亡命の身の上であるので、 ローマ人にとっては、建国以来一度として味わった事の無い屈辱であるが如何ともしがたい。

 手をつかねて見守るうちに瞬く間に七ヶ月が過ぎていく。
しかし、ローマにとっての幸運は、ケルト人は優秀な戦士であったが都市人ではなかった。
彼等はローマを占領したものの、都市ローマの使い方を知らなかったのである。

 水道の水は死体を投げ込んだ為飲めず、倉庫の焼き討ちで小麦がまも無く底を尽き、叉死体を放置した為か疫病が流行り始め、ケルト人戦士まで毎日のように死んでいくはめになった。

 カピトリーノの丘に籠城するローマ人も、飢餓に苦しんでいた。 
ローマの方からケルト人に身代金を支払う事を条件にローマから立ち去ると言う提案がなされたため、 三百キロの金塊を手にしたケルト人は七ヶ月の占領をといてローマを去った。

 破壊された都市を再建する作業がただちに始められたが、あまりの惨状に、ローマが再び立ち上がるまでに四十年間を要することになった。

 ちなみに、この次にローマが敵に踏み込まれることとなるのは、これより800年の後に起こる、ローマ帝政末期の西暦410年の蛮族の侵入まで待たねばならない。 "
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by kenji1942 | 2008-01-16 22:58 | ローマ帝国の興亡
            ケルト民族(ガリア人)の南下

 紀元前509年。
ローマはエトルリア系の王を廃して共和制に移行する。
これにより、ローマは強敵のエトルリアを敵に廻すこととなった。
それはとりもなおさずローマの軍事力アップを裏付けるものと言える。

この段階では、ケルト人は、まだローマの脅威にはならなかった。
ローマとケルト人の間にはアペニン山脈が横たわり、叉強大なエトルリア人の勢力圏がいまだ健在だったからである

 紀元前396年。
エトルリアの勢力圏をローマは個別撃破作戦で切りくづしていったが、まさにそれによって、ガリア人(ケルト民族)の南下を防いでいた防波堤を、自らの手で破壊することとなったのである。

 ローマはエトルリアの中でも有力な都市であったウエイの攻略に成功する。
10年にも及ぶ激戦を制したうえでのローマの勝利だけに、ローマは国をあげて祝い、祝うと同時に国内の抗争も再開した。

 またしても貴族派と平民派の抗争である。
軍の総司令官も空席、軍勢の半ばも脱退と言う状態のローマを悲劇が襲う。

 紀元前390年の夏。
アペニン山脈を超えたケルト人は、進軍の道筋にあるエトルリアの諸都市を攻略しながら南下を始めた。

 ケルト人の勇猛さは、ローマ人にも伝わっていた。
ケルトの戦士たちの主な武器は剣と槍で革を張った木製の楯に銅製のかぶとをつけている。
ケルト人には討ち取った敵兵の首を切り取り、自分の馬の首にぶら下げる習慣もあった。

 ケルト人はまさに、ローマ人にとっては強暴な蛮族そのものである。
この民族が、紀元前390年、ローマに狙いをつけたのである。ケルト人に襲撃されたエトルリアの都市の一つのキュージからローマに援軍派遣を求める使いが送られてきた。

 ローマはパニックに陥る。

 紀元前390年7月18日。
ローマ軍はテヴェレ河上流でケルト軍団を迎え撃ったがあっけなく敗れ去る。
敗残のローマ兵は四方八方に蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまう。

 無防備都市となったローマに、ケルト人達がはいってきた。
ここに暴虐極まりない嵐のような七ヶ月間にわたる蛮族のローマ占領が行われたのである。
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by kenji1942 | 2008-01-15 10:35 | ローマ帝国の興亡
                ケルト族の来襲

 南ヨーロッパでは、平原は畑と牧畜に活用され、海には商品を満載して船が行き交っていた時代、北ヨーロッパは未だ深い森に覆われていた。

 この森の住人がケルト族である。
 ケルト人とはギリシャ人の与えた名前で、ローマ人はガリア人と呼んでいた。
今日ではアイルランドにしか残っていないが、古代ではヨーロッパの最も広い地帯に住んでいた民族である。

 西暦も紀元前六世紀に近づく頃からケルト人の移動が始まった。

但し、大挙して一度に押し寄せたのではなく、北に起こった波が南・東・西に波及するように、北にあった民族が近くの部族を押し出し、押し出された部族が、その外側の部族を押し出すと言うかんじで、東と西と南への侵入が始まり、とうとうイタリアまで達するようになったのである。

 だが、はじめの頃のケルト人は、ローマの脅威にはならなかった。
ローマとケルト人の間にはアペニン山脈が横たわり、叉強大なエトルリア人の勢力圏がいまだ健在だったからである。

 当時のエトルリア人には、経済力と技術力に加えて軍事力もあったのである。
かくして、ケルト人南下に対する防波堤の役目をエトルリア人がはたしてくれた為、ローマはケルト人の圧力を感じなくてもよかった時代が暫らく続くこととなる。
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by kenji1942 | 2008-01-14 12:45 | ローマ帝国の興亡
             古代ローマの貴族と平民

 紀元前509年。
王制を打倒したローマ人は、二度と王をいただかない自由人となることを高らかに宣言して、共和制国家として再出発した。

 しかしながら、新しく生まれた共和制ローマは、以後百年以上にわたってローマを二分する大問題を抱え込む事となる。

 貴族対平民の抗争である。

 ローマの貴族階級はアテネの貴族階級とちがい、台頭してきた平民たち新興勢力によってたちまち過去の遺物にされるほど弱くは無かった。
 
 初代のローマ王に即位したロムルスは百人の家長たちを召集して元老院を創設するが、彼ら有力者は血縁・地縁、それ以外の縁故関係でつながっている人々を率いる立場にあった一門(ジェンス)の長であった。

 そして、その百人の長とその家族達がローマ貴族のはじまりである。

 ローマ貴族の持っていた力の基盤は、広大な土地もさることながら、貴族一門(パトローネス)に率いられる「クリエンテス」と呼ばれる人々にあった。

パトローネスには、クリエンテスの子弟の結婚話から教育問題から、または訴訟問題でさえ相談に乗り、それの解決に力を貸す責務があり、叉、クリエンテスが何か事業を始める場合も、貴族(パトローネス)は仲間の貴族たちに頼んででも、その事業が成功するように骨をおった。

 クリエンテスたちも貴族の財政状態が悪化すれば共同で助けたり、貴族が海賊に捕らわれたりして身代金の必要が生じたような場合には、八方駆け回って資金を調達するのが当然とされていた。

 反対にクリエンテスの一人が財政危機におちいれば貴族が援助する。
そして、パトローネスたちが公職に立候補でもすれば、クリエンテスたちはこぞって選挙会場であるマルス広場に駆けつけて応援するのである。
ローマ市民でもある彼らクリエンテスは立派な有権者でもあったからである。

 つまり、古代ローマ共和制時代を特色付けるこの「クリエンテス」の訳語としては、後援会員とか後援者とかも付け加えても良いほどである。

 ローマの直接税にあたるのは、不動産収入の多少に比例した兵力提供であったから広大な農牧地を所有する大貴族は、多数の軍兵を提供する義務があった。

 これも「クリエンテス」と呼ばれる配下人員の存在があったればこそである。
そして、パトローネスとクリエンテスの関係は世襲でもあった。

 パトローネス(貴族)の家長の朝は、軽い朝食を済ませてすぐに、待ち構えていたクリエンテスたちとの会談に費やされるのが日常の行事になっていた。これを終えてから他の貴族と会ったり、元老院や役所の仕事に出かけていくのである。

 ローマ貴族と平民の抗争は、既成の勢力対新興勢力の対立という図式では説明できない。
貴族とクリエンテスである平民が合体した勢力と、そのような関係の外にある平民との間の抗争であったとするのが妥当な見方であろう。

 かくして、ローマの貴族階級がアテネの貴族階級とちがい、台頭してきた平民たち新興勢力によってたちまち過去の遺物にされるほど弱くは無かった由縁である。
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by kenji1942 | 2008-01-11 15:22 | ローマ帝国の興亡