天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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          ローマの市民権の定義

 ローマ人の市民権に対する開放性は、二重市民権、つまり二重国籍を認めたことで証明されている。

 ローマ連合内の同盟国の誰かが、ローマの市民権も取得したいと思えば、この古代ローマの時期では完全に認められていた。
しかも、その人は自分が属していた地方の市民権を捨てる必要も無いのである。

 ナポリ市民でありながら、ローマ市民にもなれるわけである。
この二重市民権制度もまた、同時代の他国に類を見ないローマ独自のシステムであった。

 つまり、この時期のローマ人は自国の市民権を他国人に与えるのに、大変に鷹揚な民族であった。
それは、ローマの軍団がローマの市民権所有者のみで構成されていたからでもある。
おかげで、アテネやスパルタの軍事力は万の単位に留まったのに、ローマは十万単位の兵力を持つことが出来たのである。

 ローマ市民権の定義

権利
①不動産・動産を問わず、すべての保有財産の保証。そしてそれらの売買の自由。
②選挙権と非選挙権を有することから、ローマの国政に参加する権利。
③法にのっとった裁判を受ける権利とともに、それによって死刑を宣告されても、ローマではこれだけでは充分でなく、市民集会に訴える権利、つまり控訴権を有した。
これは事実上、ローマ市民権所有者の死刑執行を大変まれなものにしたのである。

義務
①17歳から45歳までは現役で、それ以後も60歳までは予備役として、軍隊につく義務があった。
これは「血の税」と呼ばれたもので、市民権のもう一つの義務であった納税の代わりでもある
間接税がもっぱらであった古代の税制では直接税は軍役で払うのが普通であったのである。
 
 金を払って軍務を免れるやり方は、法によって許されなかったと言うよりも不名誉なことと考えられていた。
経済的な代替行為は、市民権を持たない為に軍務につく義務の無い非市民か、ローマ人の中でも裕福でない子のない女にのみ課された税であった。

 同盟国でも属州でも、年貢金と言う形での直接税を払うよりも、兵力提供に応ずるほうが、名誉ある協力の仕方であると思われていた。
ローマにとっても資金協力よりも兵力提供の方が喜ばしい事であった。

叉、この時期、つまり、前四世紀半ばに確立した「ローマ連合」の考え方である処の、
「ローマは敗者を隷属化するよりも、敗者を「共同経営者」にするという、当時では他国に例を見ない政略を採択した事とあわせて、後世に有名になる「分割し、支配せよ」の考え方の誕生であり、それゆえにこそローマの強大化が実現していくのであった。
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by kenji1942 | 2008-02-26 20:06 | ローマ帝国の興亡
            ローマ人の敗戦処理方法

 紀元前390年のケルト来襲はローマの負けであった。
完膚なきまでの敗戦、負けっぷりに良いも悪いも無く、敗北は敗北である。

 ケルト族来襲はローマの大敗北に終り、その原因を追究することにより大いなる教訓を得て対策を練り、後の強大なローマ大帝国を築く事となる。

  ローマ人は敗北からは必ず何かを学び、それをもとに既成の概念に捕らわれないやり方によって自分自身を改良し、そのことによって再び立ち上がる性向があった。
 
 重要なのは、このケルト来襲の敗北からどのようにして立ち上がったか、である。
つまり敗戦処理をどのようなやり方でしたのだろうか、と言うことである。

 その一つは、ローマ国内の二分烈の愚かさへの対応である。
貴族派と平民派に二分烈していたからこそ、北方の蛮族にすぎないケルト人によいように翻弄されたと言える。

 ローマ貴族と平民の権力争い。
日本で言えば、武士と百姓・町民。革命でも起きなければ解決できそうに無い対立。
ローマ人の叡智は、この深刻な対立関係を、貴族が平民を内包する関係に変えたのである。

 国政の要職すべてを、祭職さえも全面的に平民出身者に解放すると言う政治改革を断行したのである。

 結果はすぐに現れた。
ここにローマは、ローマ人の持つエネルギーのすべてを投入できる、つまり国力を最大限に確立できる、体制を確立したのである。

 叉、この時期、つまり、前四世紀半ばに確立した「ローマ連合」の考え方である処の、
「ローマは敗者を隷属化するよりも、敗者を「共同経営者」にするという、当時では他国に例を見ない政略を採択したのである。

 そして、これこそ、後世に有名になる「分割し、支配せよ」の考え方の誕生である。

 ギリシャ人の歴史家が言う。
「ケルト族来襲の惨敗を受けて、この時を境にローマの興隆がはじまった。」・・と。

 まさに、「雨降って地固まる」
このことは、個人でも、民族でも、国家でも同様なことが言える所以である。
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by kenji1942 | 2008-02-22 22:08 | ローマ帝国の興亡