天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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<   2008年 05月 ( 10 )   > この月の画像一覧

  第一次ポエニー戦役の後・・5・・・・・ハミルカル・大活躍

 ジブラルタル海峡(かっては、ヘラクレスの二本の柱と呼ばれていた)を渡ってペインに移り住んだハミルカルは、その地で見事な組織力を発揮する。

 ハミルカルは彼についてきたカルタゴ兵を主体にして、戦いで破ったスペインの原住民を傭兵に加えスペインのカルタゴ軍を構成する。

 名将・ハミルカルの戦術の妙もあって原住民相手の戦いでは負けを知らない連戦連勝であった。

 支配地域は急速に拡大され、それをカルタゴ人特有の経営力によって、高い生産性を誇る農園に変貌する。

 叉、スペインには多い鉱脈も豊かな鉱山に生まれ変わった。
特に銀鉱の開発は、ハミルカルの植民地経営の成功を決定的にする。

 50年後にスペインをを訪れたローマ人のカトーがその生産性の高さに驚嘆したと言う高い収益がスペインでのハミルカルの財源であった。

 スペインでのカルタゴ支配圏は、ハミルカルが移住してきてから9年の後には、スペインの東南部を網羅されるまでに拡大される。

 そこから上がる利益は自活の範囲をはるかに越え、本国に送金し、本国カルタゴの農園経営に投資するまでになっていた。

 カルタゴは、シチリアを失ったのに見合う以上の植民地を獲得したのである。

ハミルカルのスペイン移住10年目にあたる紀元前228年には、スペイン東崖に「新・カルタゴ」と名付けられた都市の建設も終る。
 
 まさに王宮のような居城を建設したが、それはバルカ一門によるスペイン支配の本拠であった。

 カルタゴから独立したかの如くであり、スペインの各地からの産物はすべてこの地に集まるようになっていた。

 ハミルトン自身は、新都市の完成の一年前に戦死している。
後を継いだのは長年ハミルトンの副官を務めた彼の女婿・ハシュドゥバルであった。

 直系の後継者である英雄・ハンニバルはいまだ18歳の若者である。

★★★
 ハミルカル・バルカ(ラテン語 ? - 前229/228年)
カルタゴの将軍で、ハンニバル・バルカの父。「バルカ」はフェニキア語バラク baraq 「電光」に由来し、ヘブライ語のそれと全く同じ意味である。

 彼の戦歴はシチリア島から始まる。当時、シチリア島は第一次ポエニ戦争が勃発した発端となった場所ではあった。
攻撃を仕掛けてくるローマ軍に対してはすべて撃退するなどハミルカルの軍は無敗であったが、本国海軍の敗北を機に紀元前241年に和議が成立すると、降伏の意志もないままにカルタゴへと戻った。

 第一次ポエニ戦争は、彼の活躍にも関わらず、カルタゴの敗北に終わった。カルタゴの軍は基本的に傭兵で成り立っており、ハミルカルの軍はハミルカル個人の素質によって率いられたものであった。

 しかしハミルカルにより約束されていた報酬は、大ハンノを中心とするカルタゴ政府内の反ハミルカル勢力により反故にされ、傭兵たちは反乱を起こしてしまう。
危機感を募らせたカルタゴ政府はハミルカルに反乱の鎮圧を要請、紀元前237年ハミルカルは傭兵の反乱を鎮圧に成功する。

 これによりハミルカルのアフリカでの名声と影響力を世に知らしめる。
反乱鎮圧の後、ハミルカルの影響は強まり、彼の政敵は日増しに力を増す彼に抗する事ができなかった。

 この名声を背景に彼は自分の軍隊を募る。
軍にはヌミディアなどの各地からの傭兵を集めて訓練を施し、ヒスパニアへ出征してカルタゴ政府からの干渉を受けない自らの王国を築く事を決意する。新天地の開拓により、シチリア島を失ったカルタゴを支援できうると考えての行動であった。

 また遠征には息子ハンニバルも随行した。幼き日の息子ハンニバルを神殿に連れて行き、打倒ローマを誓わせた逸話は非常に有名。

 8年間の遠征を経てヒスパニアでの支配を確立しようとしつつあり、拠点としてカルタゴ・ノウァを建設中であったが、彼はその完成を見ぬまま戦死した。彼の遺志は娘婿のハスドルバルに継がれた。・・・ウキペディア


★★★
カトー

 平民の家系の出だが、ルキウス・ウァレリウス・フラックスによりローマに連れて行かれ、その後援によりクァエストル(紀元前204年)、アエディリス(紀元前199年)、プラエトル(紀元前198年)、コンスル(紀元前195年)を歴任した。

 第二次ポエニ戦争後のカルタゴの処遇について、ローマは同盟国として扱う事を選んだが、大カトーは元老院で演説を行うときに常に(全く関係無い話題であっても)「ともあれ、私はカルタゴは滅ぼされるべきであると思う」と末尾に付け加えた。

  また、カルタゴ産の見事なイチジクの実を見せて「これほど見事なイチジクを産する国が3日の距離にいる」と言ってカルタゴを滅ぼす必要性を説いた。

 (イチジクは日持ちがせず乾燥させて食べるのが一般的であり、カルタゴから運ばれたイチジクが生食できるほど新鮮である事で、カルタゴの脅威が身近にある事をアピールしたのである)。・・・ウキペディア
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by kenji1942 | 2008-05-30 11:51 | ローマ帝国の興亡
   第一次ポエニー戦役の後・・4・・・・・ハミルカル・スペインへ

 敗戦によりシチリアから撤退したカルタゴの傭兵達は、給料の支払いで不満を持ち5万人に及ぶ大反乱軍を起こす。

 紀元前240年・カルタゴ政府は武力による鎮圧を決意し、一万の兵を組織しハミルカルに総指揮を委ねる。
名将・ハミルカルのもと、彼に私淑していたヌミディア人の騎兵二千も鎮圧軍に参加する。

 傭兵を中心とする大反乱軍は、数では優勢であったが指揮官がいない。
名将・ハミルカルに戦術を駆使されては敵ではなかった。

 しかし、圧倒的な数的優勢の反乱軍には手を焼き、戦いは3年と4ヶ月にも及んだ。
名将・ハミルカルは最後に戦術を駆使して、叛乱軍を山に追い上げる事に成功し、大量の象・部隊を持って反乱軍の殲滅に成功する。

 この3年余にも及ぶカルタゴ本国の混乱の間に、サルデーニヤ島がローマ軍の傘下に入った。そして、その北に位置するコルシカ島も自動的にローマのものとなる。

 こうしてローマは、シチリア、サルデーニヤ・コルシカを支配下に収めた事により、イタリアの南・西と制海権を確実にした事になる。

 そしてこのことは、西地中海の制海権が、ますますカルタゴの手から離れ、ローマのものになっていくことを意味する。

 叛乱を鎮圧して危機を脱したものの、カルタゴ本国では国内重視派と対外進出派との抗争を終らせる事は出来なかった。

 対外進出派の統領格であった名将・ハミルカルは、国内重視派が優勢なカルタゴ本国を去ってスペインに本拠を築く事を決断する。
 
 当時のスペインにはすでにカルタゴの植民地があったが、あまり大きくは無かった。
このスペイン移住にハミルカルは、9歳になっていた長男のハンニバルを同行したのである。

★★★
ハンニバル(BC247~BC183)

ローマとカルタゴとの間で戦われたところの、ハンニバル戦争と呼ばれた第二次ポエニ戦争は足掛け17年も続いた。

 第一次ポエニ戦争の24年に較べれば短いといえるが、ハンニバルはこの長い年月を一人で支えたのである。
まさに超人であるといえる。
 
 しかも、相手は世界に名だたる軍事大国のローマである。
そのローマのフランチャイズであるイタリア半島に15年間も陣取って、ローマ元老院を顔色なからしめたハンニバルと言う将軍は、将に偉大な名将といえる。 "
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by kenji1942 | 2008-05-28 09:08 | ローマ帝国の興亡
  第一次ポエニー戦役の後・・・3・・・・・傭兵の叛乱

 カルタゴは戦って敗れた。
戦勝国のローマは戦いの神ヤヌスの神殿の扉を閉じて平和を満喫する。

 敗れたカルタゴの傭兵達は、戦場であったシチリアから大挙して引き上げてきた。
戦争が終ったのだから、用済みとなった傭兵達はそれぞれの生国であるガリア・スペイン・ギリシャ・アフリカなどに帰国しなければならない。

 傭兵達は帰国する前にカルタゴ政府が傭兵料を払ってくれるのを待っていた。
しかし、敗戦で財政緊縮の必要をより強く感じたのか、彼らの要求する傭兵料の支払いに応じなかった。

 戦いは夏前に終り、戦闘期間とされている春から秋までの半分しか働かなかったから、傭兵料も半分でよいと言うのがカルタゴ人の考えかたであった。

 勿論、命がけで闘った傭兵達は納得せず、しかも、彼等は武装していた。
傭兵達は出国まで留めおかれていたシッカの町を出て首都カルタゴに向かう。 二万の武装兵に首都カルタゴまで二十キロに迫られた政府はやむなく交渉に応じることを承諾する。

 はじめは妥当な要求を掲げていた傭兵達であったが、交渉にあたったカルタゴ政府高官の態度に腹を立て、条件を吊り上げてきた。

 カルタゴ政府の戦後対策に不満であった傭兵達の出身地の一つであったりビアが彼らに同調する動きを示してくる。

 カルタゴ本国では常日頃から、支配者カルタゴ人への叛乱の危険が常につきまとっていた。
首都カルタゴに次ぐ第二の都市ウティカまでが不満組に傾斜する頃には、武装兵は二万人から五万人に増加していたのである。

ポエニー戦役終了の翌年である紀元前240年、カルタゴ政府はもはや、彼らを反乱軍と断じ、武力による鎮圧を決意する。

 総指揮はハンニバルの父・ハミルカルに委ねられたのである。

★★★
紀元前5世紀頃から次第に勢力を強めていくカルタゴは、シチリアを巡ってギリシアと争う。
ギリシアもカルタゴと同様に地中海沿岸の植民活動を活発に行っており、その勢力に対抗するためカルタゴも頻繁に軍を派遣しなければならなかった。 かくして、カルタゴはただの交易都市から西地中海交易の保護者へと変貌を遂げていく。

 そのころカルタゴはマゴ家と呼ばれる一族が国政を支配していた。
マゴ家は王ではなく有力な貴族かつ将軍で、彼ら一族は150年間ほどのあいだ第一人者の地位を保った。

 マゴ家の指導により、カルタゴの軍は傭兵制を導入する。
カルタゴの人口は最大でも70万人といわれ、大きな軍隊を支えるにはあまりに人数が少無すぎたので、傭兵制度が必要になったのである。

 マゴ家は艦隊の整備にも力を注ぎ、地中海最大のガレー艦隊を有するカルタゴ艦隊は、周囲の国から大変恐れらた。
またカルタゴは船の建造技術にも優れ、5階層のガレー船を運用していたといわれている。

 カルタゴの転機となる第一次ポエニ戦争は紀元前265年に勃発する。
当時栄華を極めていたカルタゴと新興のローマが、シチリアを巡って争う。

ところが、ローマが開発した「カラス」と呼ばれる新兵器によってカルタゴ海軍は敗北を喫してしまう。

 カラスはスパイクの付いた長い板を敵艦に振り下ろして、重装歩兵を敵の甲板に乗り込ませるための即席の渡し橋になる。
海戦では玄人のカルタゴ水兵も白兵戦になるとローマの重装歩兵にはかなわない。

 カルタゴはその後の数回の海戦も全て敗れ、シチリアはローマ領となり、シチリアを奪われ、地中海のカルタゴ勢力は大きな痛手を負い、第一次ポエニー戦役は、カルタゴの敗退となるのである。

 
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by kenji1942 | 2008-05-26 22:59 | ローマ帝国の興亡
        第一次ポエニー戦役の後・・・2・・・講和

カルタゴの悲劇はシチリア島で始まった。

 フェニキア人が北アフリカの一角、現在のチュニジアの地に、
「カルト・ハダシュト(新しい町)」を築き、その町は「カルタゴ」と呼ばれた。

 カルタゴは精力的な経済活動によって、
地中海沿岸の各地に早くもいくつかの重要な交易基地を手にしていた。
なかでもカルタゴが重要視したのは、シチリア島であった。

 シチリア島の位置づけとして、北アフリカのカルタゴか、イタリア半島よりのギリシャ・
ローマの、そのどちらかに身をゆだねるかで、地中海の覇権はきまる。

 カルタゴの誕生の始まりから、ギリシャと後に勃興する軍事大国・ローマとの激突は歴史の必然であった。

 カルタゴは富国を望み、ローマは強兵をめざす
当初ローマはイタリア半島だけに気を取られていたが、しだいに外の世界に眼を向けたとき、
強兵の為には富国が不可欠の条件である事に気がつく。

そこで、シチリア島をめぐっての、カルタゴとローマによる宿命の戦いがはじまるのである。
世に言う・・「ポエニ戦争」である。 "

 紀元前241年にローマ・カルタゴの間で講和が結ばれた
第一次ポエニー戦役は23年間の長きにわたる熾烈な戦いの後、ローマ軍の勝利に終る。

 この戦いの結果で、ローマが戦勝国となったが、カルタゴがその傘下に入ったわけでもない。
カルタゴは「ローマ連合」に入るわけでもなく、ローマの友邦国でもなかったのである。

 カルタゴは戦争をして、敗れた。 
ゆえに、400年間にわたる長期間シチリアに持っていた領土をは放棄し、賠償金も支払ったが、独立した自治国家であることは少しも変わっていないのである。

 カルタゴはアフリカの農園経営などの利潤で、イタリアやシチリアに手を出さなくても、充分に生きて行けた。

 第一次ポエニー戦役後のカルタゴ人は、再度のローマとの戦争を願ってもいなかったし、予想もしていなかったのが大半であった。

 のちにカルタゴに現れる、戦いの英雄・ハンニバルの父、ハミルカルは23年間にわたる第一次ポエニ戦役の最後の6年を、彼自身は敢闘したのにカルタゴ海軍が海戦に敗れた事で、講和の交渉役を務めねばならなかった。

 戦役終了時には、ハミルカルはまだ40歳にも達していなかった。
ハミルカルの属するバルカ一門は、ハンノン一門の農業経済派と違って、通商を富の源泉とする人々のリーダー格である。

 シチリアを放棄したことが西地中海の海まで放棄することになるのに、より敏感であったのも当然だった。

 ハミルカルと彼に同調するカルタゴ人だけが、いつの日かローマと、再び剣を交えることを願っていたのである。

 かくしてポエニー戦役が再び勃発する。
世に言う「第二次ポエニー戦役・ハンニバル戦争」である。

 ★★★

 名将 ハンニバルのアルプス越え          
 フェニキア人はカナンの地から北アフリカに渡り、現在のチュニジアの首都チュニスの地に新しい町を作った。
そこで、その町はカルト・ハダシュト(新しい町)と呼ばれ、ローマ人はここに定着した人たちをカルタゴ人と称したのである。

カルタゴとローマの間で、三度にわたって繰り返された戦いを「ポエニ戦争」という。
「ポエニ戦争」とは「フェニキア戦争」と同義である。

ポエニ戦争といえば、何より有名なのがハンニバルである。
ローマと24年戦って、ついに敗れたカルタゴは、やがて戦後の混乱を乗り切って、再びローマと対決する。

 その立役者がハンニバルであり、彼の総指揮のもとに17年間戦われた「第二次ポエニ戦争」は別に「ハンニバル戦争」とも言われた。

 ハンニバルは稀代の戦略家であり,戦術家であり、政治家であり、学識にも優れ、人間的にも大変魅力ある人物だったのである

 ハンニバルをして、人々の胸に長く記憶させたのは、通常ではとても考えられないような、
はなれワザを彼がやってのけたからである。
それは何万という軍隊とともに、象の群れを率いて冬のピレネー山脈を越え、スペインからイタリアへ進軍した事である。 "
 


 
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by kenji1942 | 2008-05-20 15:51 | ローマ帝国の興亡
           第一次ポエニー戦役の後・・・1

 紀元前264年からはじまって23年間も続いた第一次ポエニー戦役は前241年をもって終った。

 ローマの名将・カトゥルスと、カルタゴの勇将・ハミルカルの間で同意が成った講和の内容は、
①カルタゴは、シチリア全島から撤退し、シチリアへの領有権を永久に放棄する。
②カルタゴは、シラクサも含めたローマの同盟国に対し、戦いを仕掛けないと約束する。
③両国とも、捕虜は身代金なしで釈放する。
④カルタゴはローマに、賠償金として、2200タレントを、10年間の年賦で支払う。
⑤カルタゴの自治権と独立の権利を、ローマは尊重する。
⑥エガディ諸島、マルタ、バンチレリアなどのシチリア周辺の島々もローマ領とする。

 カルタゴはアフリカの農園経営だけで、年に12000タレントの収益があり、島々のローマ領有は、既成事実の追認であった。
つまり、 ローマは、相手が受け入れやすい条件での講和を結んだのである。

 ローマでは、カトゥルスが、四頭の白馬を駆って凱旋式を挙行した。
そのおなじ頃、シチリアからのカルタゴ勢の総引き揚げが始まっていた。
カルタゴから送り込まれていた傭兵たちに続いて、シチリアでの植民地経営に携わってきたカルタゴ人も島を去らねばならない。
カルタゴの名将・ハミルカルの指揮が良く難民騒ぎなどの混乱は無かった。
シチリアの住民の大半を占めるギリシャ人にとっては、カルタゴの撤退は、それまでのカルタゴの支配からローマの支配に変わるだけなのであった。

 これでカルタゴは、400年の間築きあげてきた、シチリアの権益をすべて失った。
それは地中海の半分を失うと言うことと同義語であったのである。

★★★
共和制ローマの偉大な点

 「君主論」のマキャヴェッリが最大の賞賛を与えている点であるが、共和制ローマでは、軍の総司令官である執政官に対して、一旦任務を与えて送り出した後は、元老院でさえも何一つ指令を与えないし、作戦上の口出しもしないのが決まりだった。

 任地での戦略も作戦の立案も、完全に執政官に一任されていた。
敗北の責任を問わないのも、心置きなく任務に専念してもらう為であった。当時の大国・カルタゴの将軍は敗北の責任を取らされて第一次ポエニー戦役の間に三人の将軍が死刑にされているのと対照的だった。

 叉講和を申し出るのも受けるのも、講和の条件を提示する事から、その交渉まで執政官に一任されていたのである。

 講和の交渉中は、休戦期間とされていた。
国の最高決定機関である「市民集会」が問われるのは、執政官がまとめ上げた講和に賛成か否かを表示するだけであった。

 市民集会の投票で承認されて始めて講和が発行することとなるのである。
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by kenji1942 | 2008-05-19 15:14 | ローマ帝国の興亡
     第一次ポエニー戦役 (紀元前264年 - 紀元前241年)  

 ローマの大敵・カルタゴの政局は「国内重視派」と「対外進出派」とに分裂していた。
「国内重視派」は、北アフリカ一帯に支配圏を広げることに積極的であり、国外へのカルタゴの勢力拡大には消極的であった。

 「対外進出派」は、国外への進出を目指し、シチリア制覇にも執着を持っていた。
戦局において、カルタゴが好機に際して、しばしば消極的になるのは、国内の政局が「進出派」の足を「国内派」がひっぱるからであった。

 戦史上において最大の戦略家とうたわれる、ハンニバルや、その父・ハミルカルの属するバルカ一門は「進出派」のリーダーと目されていた。

 紀元前241年3月、国内派を黙らせることに成功したのか、カルタゴは本格的な艦隊を送り出した。
3月早々の出動は、ローマ軍交替期の為の手薄時期を狙って、シチリアのカルタゴ軍が半年は持ちこたえられるのに充分な兵糧を満載しての補給戦を狙ったからである。

 迎え撃つローマ軍の利点は、兵糧を満載して重いカルタゴ船に比べて身軽なことであった。
あちこちで、船どうしが激突する音が響き、激突でかみ合った舟から敵船に乗り移って闘う兵士達のあげる喊声があたりを圧した。

 激戦だったが、勝負は短時間のうちについた。
カルタゴ側は、五十隻以上を沈没で失い、七十隻以上の舟を捕獲されて失い、残りは向きが変わった風に助けられ本国まで逃げ帰る事が出来た。

 勝ったローマ艦隊も、追撃できる状態には無く、ほとんどの舟は修理が必要だった。
逃げ戻ったカルタゴの総司令官は敗北の責任を取らされ極刑となり磔の刑に処せられた。

 カルタゴ政府は、ハンニバルの父・ハミルカルに急使を送り、ローマとの講和の交渉役を命じた。
ローマ執政官・カトゥルスも応じた。
現状に幻想を抱かない二人の名将の間で、ここに第一次ポエニ戦役の終りを迎える事となったのである。

★★★
通商国家・カルタゴ
                富の毒
富とは・・・・
バラの花のようなものである。
誰にとっても、富は好ましく、望ましいものであるが、
そこにはきまってトゲが隠されている。

トゲとは周囲からの羨望である。嫉妬である。
そしてねたみはついに敵意をかもしだす。

まさに欲望は憎悪の母であるからである。

それだけではない。
富はその所有者自身にも、わざわいをもたらさずにはいない。
そのわざわいとは、自分自身のおごりとたかぶりである。

「エゼキエル書」にいわく。
「お前は取引が盛んになるとお前の中に不法が満ち罪を犯すようになtった。
・・・お前は栄華ゆえに知恵を堕落させた。
・・・お前の心は富のゆえに高慢になった。」・・と。

このことは、まさに「富の毒」と言える。
この禍をまぬがれた富者は殆ど居ないといっても過言ではない。

だから「平家物語」の作者はこう断じている。
「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」

洋の東西を問わず、歴史が指し示す。
それも2000数百年前から、人類は同じことを繰り返しているようである。

そして、経済大国「カルタゴ」はローマ帝国に跡形も無く粉砕されていくのであった。
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by kenji1942 | 2008-05-14 23:09 | ローマ帝国の興亡
              カルタゴはフェニキア民族

カルタゴ(羅:Karthago、英:Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖(en:Lake of Tunis)東岸にあった古代都市であり、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっている。

「カルタゴ」は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart-Hadasht=「新しい町」)に由来し、カルタゴ語では母音を抜いてQrthdstと綴る。アラビア語表記は قرطاج 

 カルタゴの経済人が国政も担当していたと言う点では、中世・ルネッサンス時代のヴェネツィアと似ているが、決定的な違いは海の上に建設されたヴェネツィアには耕地などは全く無かった。

 ヴェネツィアは、海外との交易と国内の手工業に全力を投入せざるを得なかったのに比べ、カルタゴには昔から農業経営というみちがあった。

 北アフリカ一帯は、今では雨も少なく緑にも恵まれない地方に変わってしまったが、古代では全くそうではなかった。

 カルタゴ人の農業経営能力は優れていたが、その能力を十分に発揮できる環境にも恵まれていたのである。

叉、カルタゴ人は一方では、フェニキア民族の伝統を継承して、優れた商・海洋民族でもあった。

 


★★★
経済大国・・・通商国家「カルタゴ」

            カルタゴ人と日本人 

アレキサンドリアに生まれたローマ時代の歴史家・アッピアノスは語る。
「カルタゴ人は隆盛な時には冷酷で傲慢であり、ひとたび逆境に陥ると卑屈になる。」・・と。

 どこかで聞いたことのある評言だ。
世界の一部で語られていると思える日本人評にそっくりではないか。
カルタゴ人は文句なしに、あっぱれなエコノミック・アニマルだったといえよう。

 彼等は2000数百年前に当時の世界の中で、地中海からアフリカ大陸の北岸まで足を伸ばすその情熱に置いて、その商法において、ぬきんでた商人だったのである。

当然、彼等は他の民族からは異様に思われ、不気味な連中と目されていた。
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by kenji1942 | 2008-05-13 12:28 | ローマ帝国の興亡
  ローマとカルタゴ・・・・2

 ローマとカルタゴは、第一次ポエニ戦役の勃発した紀元前264までに全くの没交渉であったわけではない。
史実に残る最初の協約は、ローマが共和制に移行した直後の紀元前508年に結ばれている。

 この段階では、ローマ側の圧倒的な不平等条約を結んでる。
カルタゴ人が「ローマ人はカルタゴの許可なくしては海で手も洗えない」と豪語しているが、すでに海運・通商大国であったカルタゴとの力関係を考えれば、当然であったのであろう。

 カルタゴ軍では、兵士と中隊指揮官までは他国人の傭兵に頼るが、総指揮はカルタゴの貴族がとる決まりになっていた。

 傭兵の利点は、兵士が戦闘で死んでも他国からの傭兵であるから自国の民の数には影響しないことでもある。


★★★

経済大国・・・通商国家「カルタゴ」
           盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわり

 この言葉は「平家物語」の作者が語るとおりに歴史哲学の基本命題である。

「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
たけき者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」

 「永遠のローマ」も決して永遠ではなかった。
そのローマの力の前に、カルタゴはわずか数百年で繁栄の歴史を閉じた。

ローマとカルタゴ。
この両国の運命ほど、「盛者必衰のことわり」を如実に示す例は他には無い。

 長命だったローマ、あまりに短命だったカルタゴ。
対照的ではあるが、両国の終末は避けられなかった。
所詮、「永遠」の栄華などというものはあり得ないのである。
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by kenji1942 | 2008-05-08 16:15 | ローマ帝国の興亡
             ローマとカルタゴ・・・・1

カルタゴ(羅:Karthago、英:Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖(en:Lake of Tunis)東岸にあった古代都市であり、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっている。

「カルタゴ」は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart-Hadasht=「新しい町」)に由来し、カルタゴ語では母音を抜いてQrthdstと綴る。アラビア語表記は قرطاج 


カルタゴは紀元前三世紀半ばには、すでにローマ領に接するシチリアの西半分を勢力下においていた。

 シチリアの東半分にはシラクサとメッシーナが健在で、ローマとカルタゴの間のクッションの役割をしていた。

 このような時代背景の時、紀元前264年、ローマの元老院は前例の無い難問を前にして苦慮していた。


 メッシーナが、シチリア第一の強国・シラクサの侵攻の矢面に立たされたため、ローマに救援を要請してきたのである。
メッシーナの人々はカルタゴに支援を求めるよりもローマを頼るほうを選んだのである。

 だが、頼られたローマは迷っていた。ローマ人は法を尊重する。
同盟関係にある友邦から救援を頼まれれば、応ずるのが義務だがメッシーナとは同盟関係にない。
 
 その上、狭い海峡とはいえ、シチリア島のメッシーナに行くには海を渡らねばならない。
農牧民族であるローマは軍船はおろか輸送船団さえ持っていなかった。
つまり、ローマの軍団は、いまだ一度も海をわたったことがなかったのである。

 しかし、ローマがメッシーナの要請を断れば、メッシーナはカルタゴを頼るのは明白であった。
ローマ人ならば足踏みしてしまうメッシーナ海峡も地中海最強の軍船団を持つカルタゴにとっては問題にならない。

 メッシーナがカルタゴの手に渡るということは、ローマ人にすれば、イタリア本土とシチリア島の間に眼に見えない橋が架けられることを意味していた。

 カルタゴがメッシーナを手中にするとなると、大変な事になる。
カルタゴはアテネが衰退したこの時代、地中海第一の海運国であった。
もしも、カルタゴがメッシーナも基地にするとなると、南イタリアを囲む海域の制海権は、もはや
カルタゴのものと思わざるを得ない。
 
 そうなっては、ローマを盟主とする「ローマ連合」諸都市の安全にとって由々しき大問題である。

迷ったローマ元老院は兵役該当者で構成されている市民集会に決議を求めた。
そして、市民集会がくだした決議は、メッシーナ救援要請の受諾であった。

 しかし、参戦を決めたとはいえ、ローマ人は当初、この参戦が第一次戦役だけでも23年間も続く事になるとは、叉、カルタゴ(フェニキア人)との正面きっての対決になろうとは考えてもいなかったのである。

 かくして、世に有名な「第一次ポエニ戦役BC・264」の勃発である。

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通商国家・・・経済大国・「カルタゴ」・・・

カルタゴは北アフリカにあり、地中海を挟んでローマの対岸にあって現在のチュニジアの地がそれである。
正確には「カルト・ハダシュト」・・すなわち「新しい都市」と言う意味であり、
今から2000年以上も前に北アフリカにあって、地中海世界で繁栄を誇った「通商国家」である。

この国と最初に張り合ったのはギリシャであった。・・が、そのうち、ようやく力を蓄え、軍事大国にのし上がったローマがカルタゴの相手を引き受ける。

そして、三度にわたる挑戦・応戦の結果、ローマはついにカルタゴを粉砕し、地上から文字通り抹殺してしまう。

世に言う所の「ポエニ戦争」である。

この「経済大国」・カルタゴこそが、「ローマによる平和」を脅かす最大の敵であると見なされたからである。


 
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by kenji1942 | 2008-05-07 10:51 | ローマ帝国の興亡
          ローマは遥かなり

 日本の諺で「栴檀は双葉より芳し」というのは、イタリアにおいては「薔薇ならば薔薇の花が咲くだろう」と言う。

 知力ではギリシャ人に劣り、体力ではケルト(ガリア)やゲルマン人に劣り、技術力ではエトルリア人に劣り、経済力ではカルタゴ人に劣っていたローマ人が、これらの民族に優れていた点は、何よりもまず、ローマ人が持っていた開放性にあったと言える。

 古代のローマ人が後世の人々に遺した真の遺産とは、広大な帝国でもなく、二千年経ってもまだ立っている遺跡でもなく、宗教が異なろうと人種や肌の色が違おうと同化してしまった、彼らローマ人の開放性なのである。

 ローマ戦士の軍靴の響きはとうの昔に消え、白亜に輝いた建物の数々も瓦礫の山と化した現代になってなお、人々が遠い昔のローマを、憧れと敬意の眼差しで眺めるのを止めない理由である。

 翻って我ら現代人を見渡せば、あれから二千年が経っていながら、宗教的には非寛容であり、他民族や他人種を排斥し続けるのをやめようとしない。

 まさに「ローマは遥かなり」である。
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by kenji1942 | 2008-05-06 09:44 | ローマ帝国の興亡