天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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         ハンニバル・・6・・・・・第一回戦・・1

 ローマ軍執政官・コルネリウスはハンニバルと始めて闘う部下達を鼓舞する。
「諸君は、新たなる敵と戦うと思ってはならない。
我々はカルタゴ軍を23年前の第一次ポエニー戦役で撃ち破ってシチリアとサルデーニャを得た。
つまりハンニバルのカルタゴ軍は敗者の残党である。
しかも彼等は、アルプスを越えてきた時点で戦力の三分の二を失い、その上に餓えと寒さに苦しみ汚物にまみれ、岩石で傷ついた兵士達だ。
ローマ軍は必ず勝てる!!」

 カルタゴ人の陣営でもハンニバルが兵士達を集め彼らの士気を鼓舞する。
「我々はローマ軍を撃ち破る為にはるばるとアルプスを越えてきた。
お前達には、ローマ軍との最初の闘いから、勝つかそれとも負けて死ぬかの道しか残されていない。

 お前達がローマ軍に勝ちさえすれば、シチリアやサルデーニャと言わずローマ人が持っているもの全てはお前たちのものになる。
ローマ人が支配している土地の全ての支配者はお前達になるのだ。

 兵士達についてきている奴隷達にも闘うならば自由にすると伝えた。叉兵士一人につき、二人のローマ人を奴隷として与えるとも約束した。

 戦争終了後には、お前達の望む国に土地を与える。
租税は子の代まで免除だ。土地より金貨を望むものには応分の金貨を与える。

 戦争は必ずカルタゴ軍が勝つ。!!」

 カルタゴの名将・ハミルカルの後継者で天才・ハンニバルの演説を兵士達は大喊声でしめくくった。

従来は冬の間は戦わないのが慣わしであったが、ハンニバルは冬季であっても戦いを挑んだ。

 ローマ軍執政官・コルネリウスはこの時期に戦端を開く気は無かったが、友軍の到着までに
敵情視察ぐらいは済ませておこうと考えて、騎兵全員4千騎と少数の軽装歩兵だけを従えて西に向かった。

 まさにその時、ハンニバルも騎兵だけを連れて、地勢を調べる為の実地踏査に出ていたのである。
 
 両軍は一気に距離を縮めてたちまち戦闘開始。
ローマとカルタゴとの間に戦われた最初の戦いは騎兵戦だったのである。

 勝負はあっけなく着いた。
カルタゴの最強の騎兵集団・アフリカのヌミディア騎兵の前に、ローマ側騎兵集団・ガリア騎兵はたちまち血祭りに上げられて執政官の周囲まで手薄になってしまう。

 最強の軍事国家のローマ軍執政官・コルネリウスは傷を負い、敵の騎兵に囲まれた。
そのあわやの瞬間を間髪をいれずに執政官を救い出したのは、その日が初陣の若い騎士だった。

 重傷の執政官を守りながらローマの騎兵は一団となって敗走する。
執政官を救い出した若者こそ、執政官の息子17歳のコルネリアス・スキピオであった。

 颯爽と登場したこの若者こそ、これより16年後にローマ軍を率い、ザマの決戦でハンニバルと対決する不世出の英雄・大スキピオである。

★★★
大スキピオ

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨ
紀元前236年 - 紀元前183年)
 古代ローマの名門出身の軍人、元老院議員。「スキピオ・アフリカヌス」と称され、スキピオ・アエミリアヌスと区別して「大スキピオ」とも呼ばれる。

 第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破り戦争を終結させた。後に元老院改革に着手するグラックス兄弟の外祖父にあたる。
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by kenji1942 | 2008-06-28 19:52 | ローマ帝国の興亡
        ハンニバル・・6・・・ローマ連合軍

 ハンニバルがアルプスを越えてイタリアに攻め入った時の軍勢は2万6千人。
対するローマ連合軍の戦闘可能員数は75万人とされていたが、ローマも同盟諸国も軍役は市民間の平等なもちまわりになるように配慮されていたので、75万人を同時に相手する事では無く、北から攻め入ったハンニバルが当面の敵とする戦力は5万人であったと思われる。

 ハンニバル軍・2万6千に対してローマ連合軍・5万人。
ハンニバル軍の2万6千人は歩兵2万、騎兵6千の精鋭である。
彼等はピレネー山脈を越え、フランス横断中に敵対してくるガリア人を撃退しづづけ、ローヌ河の渡河作戦でも生き残り、アルプス越えにも耐え抜いてきた精鋭で、二分の一の戦力だがハンニバル軍の内実は強豪であり、 まさにハンニバル軍勢は粒ぞろいの戦士達の集団と言える。

 カルタゴ軍の構成員はカルタゴ人・スペイン人・リビア人・ヌミディア人・ガリア人と他人種の混合体であったが、五ヶ月もの間、おなじ釜の飯を食い労苦をともにしてきた者同士であり連帯感も生まれていた。

 これに加えて指揮官は若くして古代戦史上に輝く天才戦略家・ハンニバルである。
ローマ連合軍のように、一年ごとに総司令官から兵士までが入れ代わる軍隊ではない。
また、ハンニバルはマケドニアのアレクサンダー大王の戦術を徹底的に学んで参考にしていたことが読み取れる。

 ハンニバルは、ローマ憎しの想いのあったガリア人達と同盟を結んだり懐柔に務めたので、アルプス越えを成功させてから一ヶ月もしない間に、ハンニバル軍の旗下に馳せ参ずるガリア兵は一万人を数え、ハンニバル軍の総勢は3万6千人となった。
しかも、当時のガリアはアフリカのヌミディア人と並んで騎兵の産地でもあったのである。

 その間、ローマ側も執政官・コルネリウスが予想もしなかった方角から攻め込んできた敵を迎え撃つ態勢を整えつつあった。

 コルネリウスだけが、ローマの指揮官達の中で、間接的であってもハンニバルの才能に瞠目したいた。
ローヌ河渡河作戦のやり方といい、誰もが不可能と思っていたアルプス越えを成功させたことといい、しかもこれらすべてを予想外の短期間で成功した手腕といい、コルネリウスはハンニバルをただの若造とはもはや思っていなかったのである。

 執政官・コルネリウスは初めてハンニバル軍と闘う部下達を鼓舞する。
「戦士諸君!今回の戦いは、われわれの国土イタリアを、叉我々一人一人の家族を守る為の闘いである。
諸君一人一り人の闘いぶりが、それらの運命をきめる。
神々が、このわれわれ全員を護られんことを!!」

 
 




 
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by kenji1942 | 2008-06-25 15:59 | ローマ帝国の興亡
          ハンニバル・・・5・・・アルプス越え・・2

 これより2000年の後にアルプスを越えて、イタリアに攻め込む事になったフランスの英雄・ナポレオンの解釈では、アルプス越えを敢行したハンニバルが遭遇した真の困難は象の群れを越えさせることであったろうと言っている。
叉、これより160年後に、ユリウス・カエサルもハンニバルとは反対のイタリア側から大軍を率いてアルプスを越えている。

 いずれにしても当時のローマ人が、不可能であると信じていたのが必ずしも誤りではなかったと思うほど、象も加わった大軍のアルプス越えは難事業であった。

 ハンニバル軍団は4ヶ月をかけて、スペイン・カルタヘーナから進軍してきたが、アルプスを降りたところに広がる谷間の地で15日間の休息を取り、次の戦いに備えたのである。

 あらゆる困難をものともせず前人未到の偉業を行った29歳の若者は、アルプスを越えてフランスに入ってからも、数多くの部族に分かれているガリア人を、金で懐柔し、叉はやむを得ず武力でおし潰すやり方で踏破した。

 その後、兵士たちが疲れを癒している間にハンニバルがやった事は、この一帯のガリア人の懐柔である。
この時の懐柔は、彼と彼の軍勢を通過させてもらう為ではなく、ハンニバルの軍に加わってローマと闘う傭兵を集める為であった。

 国土防衛に傭兵を使う伝統のあるカルタゴでは、以前からガリア人の傭兵は少なくなかった。
当時のガリア人勢力は勃興する軍事大国のローマに、じりじりと押され後退を続ける状態にあったのである。

 それが今、まるで天から降ってきたかのようなハンニバル・カルタゴ人の到来である。
しかも強大なローマとともに闘おうと言っている。

 たちまちにして幾つかのガリア人部族がハンニバルと同盟を結んだ。
だが、イタリア内のガリア人も多くの部族に分かれていて、しばしば仲間うちで争っていた。
叉、他民族であるカルタゴ人への本能的な懐疑心も強かった。

 ガリア人を間近で観察したハンニバルは、彼らを自らの配下にするには、ローマ軍と戦って勝って見せるしかないと判断するに至る。

 イタリアに攻め入ったハンニバル軍勢は2万6000人であった。
それに対する軍事大国ローマは総勢75万人。ルビコン川からメッシーナ海峡に至る「ローマ連合」の動員可能戦力である。

 これが第二次ポエニー戦役である。

 
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by kenji1942 | 2008-06-20 21:13 | ローマ帝国の興亡
        ハンニバル・・4・・・・・アルプス越え

 古代戦史上に輝く英雄・ハンニバルは、同時代人に比べて圧倒的に情報の重要性に着目していた。

 日本の戦国時代を制した信長・秀吉・家康も情報戦の勝者であり、その有利さは古今東西同じであると言える。

 古代ローマの防衛線は、紀元前・218年の時点では、東・西・南とも鉄壁であった。
しかし、唯一残った北からの侵攻路も、広大なフランスの横断とアルプス山脈越えという難事が待ち構えている。
叉、あの辺一帯の原住民であるガリア人は、戦闘で敗れたから一応はローマと講和を結んで傘下に入っているものの、ローマ人の友でもなかったが、ガルタゴ人の友でもなかった。

 ハンニバルは、この北イタリアにローマの防衛線突破の可能性を見たのである。
アルプス越えも、イタリア側に住むガリア人やフランス側に住むガリア人が、家畜などを連れてアルプスを越えて往来していたのを知っていたので、難事であり犠牲も大きいであろうが不可能事ではないと言う情報を知っていた。
世界を驚かせたアルプス越えの冒険も、ハンニバルの冷徹な計算の上に立って実行された冒険であったのである。

 ハンニバルが本拠地である、スペインのカルタヘーナを後にしたカルタゴ遠征軍の軍勢は、歩兵9万に騎兵1万二千、それに象が37頭であった。

 しかし、29歳の若き英雄ハンニバルは、この全員をイタリアまで連れていけるとは思っていなかった。
敵地でのガリア人たちとの戦闘もあるだろうし、兵糧確保の困難も予想される。
遠い地に連れて行かれそうな気配に動揺しはじめたスペイン兵には気前良く帰宅を許可し本拠地カルタヘーナの防衛に廻した。

 ハンニバルがアルプス越えに要した日数は、登りと下りを合わせて十五日であった。
人や馬ならば通れても荷車や象の通過が困難な場所では、崖の岩まで切り崩して道を広げたことさえあったし、、ガリア人の襲撃も撃退した。

 登りの時も困窮を極めたが下りもある者は寒さと疲労に耐え切れずに道端から動かなくなり、叉ある者は足を踏み外して谷底に消え、何頭の象も兵士とおなじ運命を辿った。

 かくして、エブロ河とピレネー山脈を越えてフランス側に入った時のハンニバル軍勢は、二万の歩兵と六千の騎兵の計二万六千であった。
 
 ローヌ河を渡った時点では歩兵騎兵合わせて四万六千居たのだから、アルプス越えで払った犠牲は歩兵騎兵ともで二万にものぼった。
ピレネー山脈を越えた時点で比較すれば、後に残したきた屍は三万三千人になった。

 冬のアルプス越えは前人未到の偉業であるが、払った犠牲も凄まじい規模であった。
紀元前・218年の時点で、ローマの防衛線は東・西・南とも鉄壁であったので、ローマ人の本拠地・イタリアを戦場とするには、たとえ犠牲が大きかろうと、アルプスを越えて攻め入るしか無かったのである。

 つまり、ハンニバルの宿願であるローマ撃滅の為には、この道しかなく、北イタリアから攻め入るしか選択肢はなかったのである。

かくして、 ハンニバル軍団がカルタゴ・スペインの本拠地カルタヘーナを後にしてからイタリアに入るまでに、四ヶ月を要したのであった。
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by kenji1942 | 2008-06-14 15:37 | ローマ帝国の興亡
       ハンニバル・・・3・・・第二次ポエニー戦役

 紀元前・218年の5月、打倒ローマを目指して29歳のハンニバルは、準備した全軍を率いてスペインのカルタゴ領・カルタヘーナを出発する。

 有名な史実である象をつれた大軍でスペインからフランスを越え、ついでアルプス越えを敢行し、当時の世界最高の軍事大国・ローマを17年間にわたって散々苦しめたのである。

 世に言うところの第二次ポエニー戦役・叉の名をハンニバル戦争である。 

 これ以後のハンニバルの行動を相当程度に追う事が出来るのは、彼がアレクサンダー大王を見習ったのか記録者を同行したからである。

 ハンニバルのギリシャ語の教師でシレヌスと言うギリシャ人だった。一方、ローマ側にも記録者がいた。ハンニバルとは完全な同時代人で、元老院議員を務めていたファビウス・ビクトルである。

 ハンニバルが本拠地である、スペインのカルタヘーナを後にしたカルタゴ遠征軍の軍勢は、歩兵9万に騎兵1万二千、それに象が37頭であった。
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by kenji1942 | 2008-06-13 15:58 | ローマ帝国の興亡
       ハンニバル・・2・・・ローマの攻略

 紀元前・221年カルタゴ支配のスペインで総督・ハシュドウルバルが殺され、英雄・ハンニバルが後継総督となった。

 全権を握ったハンニバルは、その翌年・紀元前220年の一年間を、スペイン・エブロ河以南の完全制覇に費やす。

 スペインの原住民は未開発民族だったが、それだけにガリア人に負けず劣らずの勇猛さであり、スペイン制覇には完成と言うものがなかったのである。

 紀元前・219年、28歳になったハンニバルは、年来の想いをいよいよ実行に移し始める。
つまり、亡き父・ハミルカルとの約束であるところのローマ攻略である。

古代最高の戦術家ということではローマ人さえも認めるハンニバルは、ローマを陥落させるのには、カルタゴ本国から攻め入るのではなく、遠くスペインからローマを落そうと考えたのである。

 
★★★
 ハンニバル(BC247~BC183)    
   
 カルタゴの名将ハンニバルは、稀代の戦術家・戦略家であった事は間違いない。
ハンニバルが軍隊に推されて最高指揮官の地位に着いたのは、若干まだ26歳の若さであった。

 いつの世にあっても、指揮官の頭脳だけでは兵士は動かない。
まして、カルタゴの軍隊の大半は外人部隊、つまり金でやとわれた異民族からなる傭兵部隊との混成部隊だった。

 そうした大集団をどのようにして統率したのだろう。
「威令・それを徹底させる信頼、それを集めるだけの行動力と人柄、それらがかね備わっていないかぎり不可能である。

 ローマの史家・リビウスは、このように評している。
「危険に際してハンニバルが示した計り知れない勇気、と同時に、この上ない判断力、どんな困難も彼の体力を損なったり、気力を挫くような事は無かったし、暑さに対しても寒さに対しても同じように平気だった。

 食べたり飲んだりすることも、あくまで生理的欲求に従うだけで、快楽の為ではなかった。
おきるのも寝るのも夜昼関係なく、仕事が済めば睡眠をとる、それだけの話だった。

 眠るといっても、柔らかいベッドだの静けさを求めるわけではない。
一般の兵隊と同じ外套にくるまって、衛兵や歩哨とともに地上に横になるだけであり、服装も普通の兵士と変わる所も無かった。

 ただ武具と馬だけが目立つくらいだった。
騎兵・歩兵部隊のなかにあって、彼は紛れも無く第一人者であった。
戦闘になると、真っ先に進み、戦場をあとにするときは、常に最後だった。」

 やはり、当時の世界で並ぶべき国が無かった超軍事大国・ローマを敵に回して、17年間も戦った英雄だけのことはある。

 アレキサンダー、ナポレオンにも匹敵する率先垂範の鑑でありハンニバルは英雄といえる。
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by kenji1942 | 2008-06-11 16:53 | ローマ帝国の興亡
      ハンニバル・・・1・・・・・・・・総督に就任

 未だローマが北辺の防御体制を確立出来ていなかった紀元前・221年に、カルタゴ支配下のスペインでは、総督・ハシュドウルバルが暗殺された。
従僕に使っていたガリア人が、侮辱されたのをうらんで殺したのだと言う。

 勇将・ハミルカル・バルカの後継として女婿・ハシュウドウルバルがスペインを統治していたが、バルカ家の婿である彼は、直系のハンニバル・バルカが成長するまでの引き継ぎ役でもあった。

 父・ハミルカルの死んだ年は18歳でしかなかったハンニバルだが、総督・ハシュドウルバルが暗殺された時には26歳になっていた。

 本国・カルタゴの政府も、スペインのカルタゴ人も一致してハンニバルの総督就任を認め、ここに稀代の軍略・戦術家である英雄・ハンニバルが颯爽と登場することとなる。

★★★
ハンニバル(BC247~BC183)

 ローマとカルタゴとの間で戦われたところの、ハンニバル戦争と呼ばれた第二次ポエニ戦争は足掛け17年も続いた。

 第一次ポエニ戦争の24年に較べれば短いといえるが、ハンニバルはこの長い年月を一人で支えたのである。
まさに超人であるといえる。
 
 しかも、相手は世界に名だたる軍事大国のローマである。
そのローマのフランチャイズであるイタリア半島に15年間も陣取って、ローマ元老院を顔色なからしめたハンニバルと言う将軍は、将に偉大な名将といえる。 "
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by kenji1942 | 2008-06-09 20:56 | ローマ帝国の興亡
第一次ポエニー戦役の後・・7・・・・・ローマ軍団

 第一次ポエニー戦役と第二次ポエニー戦役の間の23年間に、ローマ人は、シチリアの属州統治や、イリリアの海賊退治、ガリア人相手の戦闘ばかりして過ごしたのではない。

 紀元前241年・「第一次ポエニー戦役終了直後」には、紀元前六世紀半ばの王政時代に、六代目王・セルヴィスによって成された「税制・選挙制・軍政」を三百年ぶりに改革した。

  ローマ軍団を構成する市民兵も、市民権所有者のより広範囲な層によって構成されるようになった。
これは、軍団の指揮官達に貴族・平民の差別が全く存在しなかったことと並んで、ローマと言う国家の挙国一致体制の強化に有効に働く事になるのである。

 ローマ軍の現役は17歳から45歳まで、46歳から60歳までは予備役となる。但し将官クラスになれば年齢制限はなかった。
それでも60歳を過ぎれば、他に代えがたいと思われた人物でもなければ、退役になるのが普通だった。

 ローマ軍団の主力は、ローマ市民の上流と中流の階級出身者で占められる重装歩兵である。

 総司令官の参謀を務めたり中隊の指揮を任される将官クラスは市民集会の投票で選ばれる。
それゆえに名門の子弟や有名な武将が選ばれやすいのであるが、「百人隊長」だけは、彼が属する小隊の隊員間の投票で選ばれるのである。

 ローマ軍団の「百人隊長」は、単なる下士官ではなかった。
それどころかローマ軍団の背骨と思われていたのは、上級指揮官である将官ではなく、下級指揮官の百人隊長であったのだ。

 兵士達の最大の名誉とされていたのは「百人隊長」に選出されることであった。
鉄杯も黄金の鎖も、その人の勲章となったが、「百人隊長」になることの方が最大の勲章であった。

 彼らこそが、ローマ軍団の先頭に立ち、兵士達を率いて闘う責任者だった。
最高司令官の武将としての能力は、百人隊長をどれだけ駆使できるかで決まったと言う。
 
 天才・カエサルを頂点とするローマの名将たちは、いずれも、百人隊長の心を完全に手中にし、彼らを手足のごとく使いこなせた男たちであった。

 ローマ軍では、軍規も賞罰も隅々に至るまで細かく定められていた。
これは指揮官が毎年の選挙で代わるし、兵も代わる状態なので誰がやってもおなじ結果を生むために公正を期したからである。
 
 叉、ローマ軍の軍規の厳しさは毎夜、律儀に「宿営地」を築くこともあったが、夜間の歩哨勤務中に眠りこけたりして任務を怠った兵士には、事実上の死刑が待っていた。
両側に並んだ全員が棒で殴りつけるので、生きながらえることはほとんど無かった
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by kenji1942 | 2008-06-06 14:31 | ローマ帝国の興亡
第一次ポエニー戦役の後・・6・・・・・ローマの現状

 紀元前226年、ローマに破れシチリアから撤退したカルタゴは、ハミルカルの活躍でスペインに一大植民地を経営していた。

 ローマは第一次ポニー戦争に勝利した後の23年間、つまり第二次ポエニー戦争に至るまでをいかに過ごしていたのだろうか。

 ローマはスペインで大活躍したハミルカルの後継者・ハシゥドゥバルと協定を結び、スペインの北部を西から東に流れるエブロ河以北にカルタゴの勢力圏を広げないようにした。

 エブロ河はピレネー山脈のすぐ南を流れているのだから、ローマは実質的にスペインのほぼ全土のカルタゴ支配を認めたことと同義語である。
 異民族統治は誰にとっても難しいものである。
ローマ・元老院はカルタゴと戦って獲得したシチリアの統治を如何にするかに頭を悩ましていた。

 ギリシャの植民地を起源とする都市の多いシチリアはギリシャ語圏に属していた。
ギリシャのアテナが健在であった時代からギリシャ文化の一大根拠地であったシチリア内・シラクサの文化水準は一流であった。

 そのシラクサがローマの勝利によって友邦国となったのである。
ローマの良家の子弟たちはこぞってギリシャ語習得の為に南をめざした。

 当時ではラテン語よりもギリシャ語のほうが言語としての完成度が高く、且つギリシャ語の使用圏は地中海世界全域に及んでいたのである。

 「ギリシャ熱」はたかまり、ローマ人は被征服民を家庭教師に招じ秘書に雇い、被征服地に子弟を留学に送り出したのである。

 叉、その一方軍隊の敏速な移動の為の道路の整備、つまりローマ人の「インフラ整備熱」
は充分に機能しシチリア島、サルデーニャ、コルシカ島に及んだのはいうまでもない。

★★★
シチリア島

 紀元前8世紀、ギリシャによる植民が開始された。
紀元前734年頃、シケリア最大の植民市となったシュラクサイ(現在のシラクサ)の他、ゲラ、アクラガス、セリヌス、ヒメラ、メッシーナ、レオンティノイなどの植民都市が建設された。

 ギリシャの学者として有名なエンペドクレスやアルキメデスはこの島の出身である。

 その後、ヘレニズム期において、ギリシャはカルタゴと戦争状態に入った。
カルタゴは、シチリア島の南西のそれほど遠くないアフリカ本土にあり、シチリア島に植民都市もあった。

 第一次シチリア戦争と第二次シチリア戦争において、カルタゴはシチリア島からギリシャを駆逐しようとし、両軍が多大な犠牲を払った。
第三次シチリア戦争で、カルタゴはシラクサとメッシーナが支配する島の東部を除いた他の領域を支配下においた。

 紀元前256年、シラクサに侵攻されたメッシーナは、ローマに救援を求め、これがローマとカルタゴによる第一次ポエニ戦争の発端となった。
戦争の終結する紀元前242年には、シチリア島全域がローマによって占領された。

 第二次ポエニ戦争でのカルタゴの初戦の快進撃によって、シチリア島の諸都市はローマに反乱を起こし始めたが、ローマは軍団を派遣し、これを鎮圧し、(シラクサの包囲戦の最中にアルキメデスが殺害された)最終的にカルタゴはシチリア島から追い払われた。

 紀元前210年にローマの執政官M・ウァレリウスが元老院に向かって述べた「一人のカルタゴ人もシチリア島に生かしてはならない」という言葉通りに、シチリア島のカルタゴ寄りの人々が多く殺された。

 このあと、6世紀の間、シチリア島はローマ帝国の属州であった。僻地の田舎のような扱われ方だったが、シチリア島の農作物はローマ市にとって重要な食料供給源であった

 強いてローマ化しようとはしなかったので、島はギリシャ時代の様子を多く残していた。
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by kenji1942 | 2008-06-04 11:50 | ローマ帝国の興亡