天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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      ハンニバル・・・11・・・カンネ会戦の勝利報告

 ハンニバルはカンネの会戦の後に勝利を知らせる為、末弟・マゴーネをカルタゴ本国に送る。
カルタゴ元老院の議員は、会戦で討ち死にしたローマ兵の指から抜き取った金の指輪で山が築かれたのを見てどよめいた。

 しかし、ハンニバルの属する他国への進出派とはl、常に確執の仲であった国内重視派の巨頭・ハンノンは、マゴーネに質問する。

 「ラテン民族の中でどの部族が我々カルタゴの側に寝返ったのか。
叉、37もあるというラテン植民都市の中で、どれくらいが戦線から離脱して、ハンニバルの軍に投降してきたのか」

 マゴーネは老齢の有力者に答える。
「いえ、ひとつもありません」。

 ハンノンはローマを支える植民都市や同盟諸都市の市民に、ローマを見離す気配が無い事を
知って依然としてローマの強大さを確信する。

 ハンノンは提案する。
「ハンニバルが奇跡的にアルプスを越えて後に連戦連勝し、叉、カンネの闘いで大勝利を収めたと雖も、敵のローマ連合はいまだに強大である。
従ってこの時点でローマと講和を結ぶ事が最善の策である。」・・と。

 しかし、カルタゴの大勝に酔うカルタゴ元老院はこの策をとらなかった。
叉、ローマもこれを望まなかった。

 ああ、惜しむらく。歴史にイフは無いとは雖も、
この時点で講和をしておれば、地上からカルタゴの生滅と言う不幸は無かったかもわからない。

 ハンニバルは、四度の敗戦で自信を喪失したローマが、シチリアとサルデーニャと南イタリアを放棄するのを条件として講和を提案する。
つまり、第一次ポエニー戦役でカルタゴが失ったものを全て獲得したいと思ったのである。

 ハンニバルから講和打診をローマは拒絶した。
ローマからの回答を知ったハンニバルは、捕虜である8000人のローマ市民兵全員を奴隷としてギリシャに売り飛ばした。

 戦役続行の意志を明らかにしたローマでは、元老院議員の全員が不動産以外のすべての財産を供出すると決めた。
叉、戦費確保の為の戦時国債が発行され、無産階級を除いた全市民にもそれぞれの経済力に応じて割り当てられた。

 紀元前215年ローマは危機的状況に陥っていた。
東はカルタゴ軍と同盟を結んだマケドニア・南はローマに叛旗を翻したシチリア島のシラクサ・南はカルタゴ傘下のスペイン、北はガリア民族、そして、イタリアの中には最も手強いハンニバルがローマを狙っていたのである。
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by kenji1942 | 2008-07-24 20:12 | ローマ帝国の興亡
      ハンニバル・・10・・・カンネーの戦い

 紀元前・216年、ローマは市民集会を開き軍勢を増強し春の戦闘再開に備えた。
二人の執政官が一日交替で総指揮を取る戦力は、歩兵8万人、騎兵7200騎、総計82700である。
紀元前・216年のローマは、可能なすべてを対ハンニバル戦に投入したのである。

 一方、冬営地のブーリア地方で待ち受けるハンニバル軍は、歩兵4万人、騎兵1万騎、総計50000である。

 ハンニバル軍は、軍勢5万人の食糧確保の為カンネの村を襲撃する。
カンネは、ローマが同盟諸国内の随所に築いてあった食料貯蔵用の基地のひとつであった。

 ハンニバルはカンネの村のすぐ背後に立つ丘に陣営を築きそこでローマ軍を迎えた。
イタリア半島での最大の会戦となったカンネーの戦いは、ハンニバル軍5万・・ローマ軍8万であったが、ローマ軍は壊滅的打撃を蒙ってしまった。

ハンニバルの戦いの基本的な戦法は
テナイア(ぺンチ)と呼ばれる陣形で、前線の中央部に歩兵を置いて敵を誘い、深追いさせた所で、両側から騎兵が囲い込み、殲滅させるという得意の戦術である。

ローマ軍はこれまでも、この作戦にひっかかり散々な敗戦の憂き目にあっているのに、カンネーの決戦でもまんまと引っかかり、カルタゴの大勝利に終わる。

まず、ローマ騎兵はアフリカ一の騎兵軍団・ヌミディア人の騎乗力の敵ではなく殆ど殺された。
叉、7万のローマの歩兵団は、まるで絵に描いたかの如くの見事さで、5万のハンニバルの兵士達に四辺を囲まれ壊滅した。

ローマ側の戦死者は全滅に近い7万人とも言われ、司令官も命を落とした。
是に対してカルタゴ軍の損失は5千5百人で、そのうちの三分の二はガ傭兵のガリア兵であった。
如何にハンニバル軍の圧倒的な勝利であったかが判る。

 その全歴史を鳥瞰しても、ローマがこれほどの敗北を喫したのは、このカンネの会戦が最初にして最後になるのである。
 
 ただ唯一の幸いは、後々、カルタゴを打倒するローマの若き天才・コルネリウス・スキピオ19歳が逃げのびていた事である。
若きスキピオにとって、ハンニバルの戦術の妙に触れるのは、これで三度目になった。

 カンネのハンニバルの陣営では、完勝の夜は喜びで爆発しそうであった。
幕僚達は、時をおかさずにローマ攻略を進言したが、31歳の勝利者・ハンニバルは、ローマの崩壊は、「ローマ連合」の崩壊によってしか実現しないと信じていたので耳を傾けなかった。

 ハンニバルは、あくまで初心貫徹。
つまり、「ローマ連合」の解体というイタリア進攻を決意した時の基本戦略を変更しなかったのである。

 将官の一人はハンニバルに向かって言った。
「あなたは勝利を手にすることは知っているが、その勝利を生かす事は知らない」・・と。
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by kenji1942 | 2008-07-18 10:56 | ローマ帝国の興亡
        ハンニバル・・9・・・ローマ危うし

ローマ軍は、ハンニバルに連戦連敗する。
  
 トラジメーノの戦いに大勝しながら、ローマを一気に突く事を急がなかったことで、ハンニバルの戦略が、この戦いの二年目にして多くのローマ人にはっきりとわかった。

 まず、「ローマ連合」の加盟諸国の領土を重点的に焼き討ちして略奪する。
次いで、それを座視する事が許されないローマ軍が出動して来たところで、会戦し挑発してカルタゴ軍の勝利に結びつける。

 会戦での勝利が重なるたびに、同盟諸都市のローマからの離反も増加する。
最後に、外堀が埋められた状態でのローマを攻め、壊滅する。

第二次ポエニー戦役における、前216年8月2日の夜、ハンニバル軍の指揮官達は口々に、ただちにローマに進撃すべきであると主張した。

ローマは高速道路・フラミニア街道を驀進すれば三日の行軍距離に、勝利に気をよくした5万の敵軍を迎えることとなり、戦々恐々、恐怖のどん底に追い込まれた。
まさにローマは風前の灯の危機にあった。

 もしハンニバルが将軍達の意見をいれて、ただちにローマ攻撃に移っていたら、ローマは潰えていたかもしれなかった。
だが、ハンニバルはその進言を拒否した。
ハンニバルは、この時点での本丸への攻撃よりも、まずは、ローマの「外堀」をうめるつもりであったのである。

 天才的な軍略家のハンニバルには、ローマ攻撃・包囲戦が長期持久戦になるだろうし、そうなるとローマ側に立つイタリア諸都市が一致して背後からハンニバル軍を脅かし、糧道を立たれる事を怖れたのである。

 しかし、あまたの戦術上の予想よりも、カルタゴ人特有の考え方が、ローマ攻撃をハンニバルに思い留まらせたと見るべきであろう。

 それは、もともと海の民であるカルタゴ人は領土的野心を持たなかった。
カルタゴ人にとって都市はあくまで経済活動の拠点に過ぎず、それを征服し、占領し、統治するなどと言うのは、およそ無駄な事であり、この上なくわずらわしい努力に思えたのである。

 かくして、ハンニバルはローマをめざすことなく南イタリアに向かって行ったのである。

 ハンニバルの目は、弱りきった都市ローマに注がれていたのではなく、カルタゴの重要な基地であるスペイン、シチリア、サルディニア島、イタリア全体に配られて、カルタゴ貿易網を復活させるのが本意であった。

 つまり、カルタゴ人の目的は「富の追求」であり、都市はそのための機能さえ果たせば、それで十分だったのである。

 ローマは強大である。
ローマ市民兵は、共和国ローマの領内だけにいたのではない。
ローマが全イタリアに70以上も建設した植民都市(コローニア)にも、ローマが信頼できる市民達は住んでいたのである。

 この人々が、首都ローマを攻撃中のハンニバル軍の背後を突くという可能性は充分にあったのである。
従って、当初にハンニバルが如何に連戦連勝したと言っても、叉、ローマまで三日の行程だからといって、簡単にローマを突くと言う事はゆるされなかったのである。

 やはり、ハンニバルは勇猛果敢な猛将だけではなく、知略縦横で戦略的な側面を当初から持っていたのである。
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by kenji1942 | 2008-07-17 18:54 | ローマ帝国の興亡
         ハンニバル・・8・・・イタリア遠征2年目

 共和制・ローマでは執政官は常に最前線に派遣される。
戦争における敗戦の責任者は十字架刑に処して殺してしまうのを慣例にしていたカルタゴ人と違って、ローマ人は敗将を罰しないのを伝統としていた。

 これは、ルネッサンス時代の政治思想家・マキアヴェツリが大絶賛している制度である。

それはローマ人が戦う将軍に後顧の憂いなく戦場での指揮に専念してもらう為であると述べている。
カルタゴ人ともギリシャ人とも違ったローマ人のこのやり方は、不幸にして敗将となった者に、雪辱の機会を与えることにもつながった。

 もしも敗北の原因が指揮官としての能力の欠如にあれば、自らも兵士であるローマ市民は、二度と執政官に選ばないであろうし、敗将でも能力ありと認められれば、執政官への再選出もありえるのである。

 ローマは、紀元前367年のリキニウス法成立を境にして、国家の要職の全てを貴族だけではなく平民にも開放すると言う方針を確立していた。
それによってローマの最高位者である二人の執政官に平民階級出身者も選ばれるのが恒例になっていた。

 アルプス越えのハンニバルに敗れて重傷を受けた、ローマの執政官・コルネリウス・スキピオは
敗戦の責任を取らされることもなく、能力を買われて執政官と同格の絶対指揮権を与えられる・前執政官に任命され一万の兵とともにスペインに派遣され、ハンニバル不在の後背地の切り崩しを狙っていた。

 紀元前217年、ハンニバルはイタリア遠征の2年目を迎え30歳になっていた。

 前・217年4月19日、トラジメールの湖畔での戦闘はローマ軍の惨敗に終り2万5千のうち1万7千が戦死して、ローマまで逃げ戻れたのは2千を数えるに過ぎなかった。

 ハンニバルを意識して増強までした二個軍団をローマは丸ごと失ったのである。
ハンニバル側の損失は2千に留まった。
しかもそのほとんどはガリア兵でスペインから連れてきたハンニバルの精鋭は、今度もほとんど手つかずで残ったのである。

 かくして、ローマはトレッピアの敗戦でアルプスの南側のガリアを放棄せざるを得なくなったのに続いて、トラジノールの敗戦で、トスカーナ地方まで敵の手に委ねる事となった。
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by kenji1942 | 2008-07-08 14:10 | ローマ帝国の興亡
        ハンニバル・・7・・・カルタゴ軍の連戦連勝

 紀元前・218年、ハンニバル・カルタゴ軍によるイタリア遠征の一年目は輝かしい戦績で飾られた。
ローマは数ヶ月前まで制覇を完了しつつあった北イタリアを完全に放棄したのである。

 この勝利によってそれまで北イタリア・ポー河周辺でローマ側についていたガリア族、叉、どちらにつくか迷っていた部族も、もはや一斉に勝利者であるハンニバル軍の許に馳せ参じ、たちまちハンニバル軍は2万6千人から5万人にふくれ上がった。

 ハンニバルは恭順を表して次々に訪れるガリアの族長に応対しながらも、この北イタリアでいかに多くのガリア人の加勢を得てもそれでローマを陥落させられるとは思っていなかった。

 ハンニバルは、この闘いで勝ち取った捕虜達から情報を聞きだした後に、彼らを「ローマ市民兵」と「同盟諸国の市民兵」とに二分して待遇に完全な差をつけた。

 「ローマ市民兵」には食事さえ充分に与えず、過酷な労働に使役したりして痛めつけた。
反対に「同盟諸国からの兵士達」には、充分な食事を与え、手足を縛ることもなく火の傍で暖を取ることまで許した。

 それを暫らく続けた後で、ハンニバルはローマ市民兵の捕虜だけを殺して、同盟諸国からの兵を集めて彼らに言った。

 「私は、ローマ連合全体を敵視しているわけではない。
私の敵は、ローマだけである
お前達には今、身代金も要求しないで自由を与える。
それぞれの国に戻って、ここで起こったことと私の言った事を同胞に伝えるのだ。

 ローマから離反してカルタゴの側につくならば、ハンニバルは、敵と見ないで味方と認め、それらの国の自由と独立と安全を保証すると、確言したと伝えよ!!」

 古代戦史上最大の天才軍略家のハンニバルは、30歳にも満たない若者であったが、最強の軍事大国ローマを陥落させるには、「ローマ連合」の鉄の結束にクサビを打つ事が肝要であると強く感じていたのである。

 アルプスを越えてまでイタリアを戦場とするのに執着したのは、同盟諸国のローマからの離反を誘発する為であった。

 そして今後の戦場は、「ローマ連合」の領域であるルビコン川以南で闘うこととした。
カルタゴ軍の強さ、ハンニバルの輝くような戦略的才能を鮮やかに示して見せる為にである。

★★★
 ハンニバル(BC247~BC183)
       
 カルタゴの名将ハンニバルは、稀代の戦術家・戦略家であった事は間違いない。
ハンニバルが軍隊に推されて最高指揮官の地位に着いたのは、若干まだ26歳の若さであった。
いつの世にあっても、指揮官の頭脳だけでは兵士は動かない。、まして、カルタゴの軍隊の大半は外人部隊、つまり金でやとわれた異民族からなる傭兵部隊との混成部隊だった。

 そうした大集団をどのようにして統率したのだろう。
「威令・それを徹底させる信頼、それを集めるだけの行動力と人柄、それらがかね備わっていないかぎり不可能である。

 ローマの史家・リビウスは、このように評している。
「危険に際してハンニバルが示した計り知れない勇気、と同時に、この上ない判断力、どんな困難も彼の体力を損なったり、気力を挫くような事は無かったし、暑さに対しても寒さに対しても同じように平気だった。

 食べたり飲んだりすることも、あくまで生理的欲求に従うだけで、快楽の為ではなかった。
おきるのも寝るのも夜昼関係なく、仕事が済めば睡眠をとる、それだけの話だった。
眠るといっても、柔らかいベッドだの静けさを求めるわけではない。

 一般の兵隊と同じ外套にくるまって、衛兵や歩哨とともに地上に横になるだけであり、服装も普通の兵士と変わる所も無かった。ただ武具と馬だけが目立つくらいだった。

 騎兵・歩兵部隊のなかにあって、彼は紛れも無く第一人者であった。
戦闘になると、真っ先に進み、戦場をあとにするときは、常に最後だった。」

 やはり、当時の世界で並ぶべき国が無かった超軍事大国・ローマを敵に回して、17年間も戦った英雄だけのことはある。

 アレキサンダー、ナポレオンにも匹敵する率先垂範の鑑でありハンニバルは英雄といえる。 "
 
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by kenji1942 | 2008-07-06 21:11 | ローマ帝国の興亡