天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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        ハンニバル・・・14・・・英雄・大スキピオ

 第二次ポエニー戦役に突入してから9年が過ぎた頃、つまり紀元前・210年ごろの「ローマ連合」の数は150を数えられ、その同盟都市や同盟植民地から兵力の補強があってカルタゴ軍との戦いが継続できていた。

 25歳の若きローマ軍総司令官・スキピオは2万1千人を率いてスペインの陣地に赴任した。
彼を迎えたのは、8年に亘るスペインのカルタゴ軍討伐に失敗して打ちのめされている、亡き父と叔父の敗残兵七千人だった。

 25歳の若者・スキピオは敗残兵の敗色感を一掃することからはじめる。
彼らを集めて、「歳は若いが自分には、海神・ポセイドンが味方についている」と告げ、暗にではあるが、「自分の真の父親は、このスペインで戦死した、コルネリウス・スキピオではなく海神・ポセイドンであることまで匂わせた。

エジプトの神官から、父親はマケドニア王では無く、不死の者、つまり神々の一人であると告げられ驚きながらも信じた紀元前・330年ごろのアレクサンダー大王の例もある。
叉、16世紀においても、越後の上杉謙信は軍神・毘沙門天の転生であると信じられていた。

 天才的武将と言うのは、部下の心をつかむ為には、自分の母を神々の一人と姦通させるということくらいは朝飯前と言う人種でもあるようである。

 かくして、神々を信じる気持ちの強かった敗色濃厚のスペイン・ローマ軍の兵士は、そのようなスキピオならば、カルタゴ軍に勝てるかも・・と思い始めたのである。

 スキピオは紀元前・210年から209年にかけての自然休戦期である冬を、スペイン・カルタゴ軍の情報を集め分析し、それらをもとに戦略を立て、且つローマ軍兵士の訓練に励んだ。

 スキピオが率いるローマ軍は、2万8千。
敵・カルタゴ軍はスピキオの父と叔父が敗北した2年前と変わりなく、三軍に分かれて行動していた。

 ハンニバルの次弟・ハシュドゥバルが率いる第一軍と末弟・マゴーネの率いる第二軍、ジスコーネが率いる第三軍である。
一軍ごとの兵力は、いずれも2万5千程度、合計すれば7万を優に越えていた。
その上カルタゴ軍には象も居たのである。

 兵力の差は歴然としている。
ただし、カルタゴの三軍は互いに相当な距離をおいて冬営中であることもわかった。
且つ、スペイン・カルタゴ軍の本拠地・カルタヘーナから10日間の距離があることも判明した。
 
 若きローマ軍の天才的武将・スキピオは電光石火の早業で、普通ならば20日間はかかる距離だが、これを急行軍で乗り切り、7日後にはカルタゴ軍の本拠地・カルタヘーナの城壁前に迫ったのである。

 カルタゴの三軍とも、スキピオのスペイン到着は知っていた。
ただ、これほど早く、しかも敵の本拠地を真っ先についてくるとは、予想もしていなかった。

 若き武将は味方のローマ軍兵士達にも城壁に迫るまでは、この戦術を明かさなかった。
かくして、スキピオの奇襲作戦は完全に成功し、思わぬ方角からの攻撃を受けたカルタゴ軍守備兵・4000は降伏する。

 まったく、たったの一日の戦闘でスキピオは、敵の本拠でありカルタゴ本国との連絡の要でもあった都市・カルタヘーナを攻略してしまったのである。

 カルタゴの三軍には駆けつける暇も与えない、まさに電撃的作戦の成果であった。

 カルタヘーナはカルタゴ植民地の首都として建設されていて、ハンニバル一家の居城でもあった。
カルタヘーナにはスペインで開発した鉱山や農耕地からの産出品は全て集められ、海路カルタゴ本国に送られていた、まさにカルタゴの金城湯池であったのである。

 叉、カルタヘーナはスペイン・カルタゴ軍の武器庫でもあり、金庫でもあった都市である。

 この一挙の成功で、スキピオは二年前に父と叔父の敗北で失った、スペインでのローマ勢力を再興したことになる。

 だが、征服も難事であったが、それを維持し続けることはもっと難事である。
本拠・カルタヘーナを失ったとはいえ、スペイン・カルタゴ軍の三軍とも健在であったからである。 

 軍事に詳しい歴史家・ポリビウスが言う。
「スキピオのあらゆる行為は、完璧な論理的帰結を持っていた」・・と。

★★★
大スキピオ

 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨ
(紀元前236年 - 紀元前183年)
 古代ローマの名門出身の軍人、元老院議員。「スキピオ・アフリカヌス」と称され、スキピオ・アエミリアヌスと区別して「大スキピオ」とも呼ばれる。

 第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破り戦争を終結させた。
後に元老院改革に着手するグラックス兄弟の外祖父にあたる。
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by kenji1942 | 2008-08-21 22:35 | ローマ帝国の興亡
        ハンニバル・・13・・・ポエニー戦役の後期 

 ハンニバル戦争が勃発してから9年目、ローマがカンネの会戦で大敗北を喫してから6年目にあたる紀元前・210年ごろ、ようやく軍事大国・ローマの底力が発揮されはじめ、この戦いの主導権が、明らかにローマ側に移りつつあった。

 イタリア国内での英雄・ハンニバルの偉大な戦績に対してカルタゴ本国が、その好機を活用する事を知らなかったのである。
経済活動にしか熱意を示せなかったカルタゴ本国指導者の無能といわざるを得ない。

 イタリアで戦うハンニバルに対して本格的な攻勢に出られるようになった頃、スペインにおけるローマ軍で若き英雄が活躍を始めていた。

 後に、大スキピオと言われた、天才・ハンニバルの最強の敵となる、ローマ軍の英雄ブブリウス・コルネリウススキピオ25歳の登場である。


 リーダーとして成功する男の最重要条件としては、彼がかもしだす雰囲気がイタリア語では、セレーノ、強いて日本語に訳せば晴朗にあたる。

 スキピオは若い頃からこの条件を完全に持っていたのである。
コルネリウス一門と言う、ローマきっての名門貴族の出身であり、彼が演壇の上に立っただけで人々はこの若者を支持したい気持ちがわいてくるのであった。

 育ちの良い有能なこの美青年は、彼の持ち前の人なつっこさに助けられて、嫌味や反発を感じさせずに人々に受け入れられたのである。
 
共和制ローマでは、戦略単位である二個軍団の2万から3万の兵を指揮するなどの大任は、執政官か法務官にしか許されておらず、且つ、両官職とも、資格年齢は40歳である。

 25歳のスキピオにはその資格はなかった。
しかし、当時のローマには対カルタゴ軍との戦いで40歳以上の武将のストックが少なかった。

 元老院の達した結論は、やりたいというスキピオの熱意に対して、「やりたいと言っているのだからやらしてみようではないか」。・・ということになった。

 スペインで戦死したスキピオの父と叔父の仇を討ちたいと言う若者の願いに元老院は抗し切れなかった。

 戦死したスキピオの父と、叔父の同僚でもあった元老院議員たちにとって、この決定は、祖国の為に遠いスペインで死んだ彼らへのはなむけの意味もあったのである。

 古代の歴史上において、アレクサンダー大王の最も優秀な弟子がハンニバルであるとすれば、そのハンニバルの最も優れた弟子は、このスキピオではないかと思われる。

 そして歴史の皮肉とすれば、アレクサンダー大王は幸いにも弟子の才能を肌身で試験する機会を持たずに世を去ったが、ハンニバルの場合はそうはならなかったのである。

 ここに25歳という異例の若さでローマ・スペイン軍の総司令官が誕生したのである。
こうして、第二次ポエニー戦役の舞台に、不世出の天才的な武将が登場する。


★★★
大スキピオ

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨ
紀元前236年 - 紀元前183年)
 古代ローマの名門出身の軍人、元老院議員。「スキピオ・アフリカヌス」と称され、スキピオ・アエミリアヌスと区別して「大スキピオ」とも呼ばれる。

 第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破り戦争を終結させた。
後に元老院改革に着手するグラックス兄弟の外祖父にあたる。

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by kenji1942 | 2008-08-10 20:53 | ローマ帝国の興亡
    ハンニバル・・・12・・・・ハンニバルの弱み

 人類の歴史上において、国の危機には多くの国で国論は分裂する。
・・がローマではそれは起きなかった。

 この国論の分裂が無かったということが、ハンニバルに徹底的に敗北した後でもローマが生き残った真の強さの基である。
叉、「ローマ連合」も南イタリアがハンニバルの勢力下に入ったあとでも、ドミノ式離反は起こさず、同盟諸都市も植民地も「ローマ連合」に留まり続けたのである。
 
 それだけ、ローマの属州統治が善政そのものであった証左と言える。

 幾多の戦闘においてローマ軍に死傷者が出たことは勿論であるが、ハンニバルの側でも、少しずつ、だが、確実に彼の手勢は減少しつつあった。

それでもハンニバルは支配下地方からの徴収で軍勢の補強はできていたが、その兵力を指揮できる将軍がいなかったのである。

 ハンニバルが陣頭に立った闘いでは、カルタゴ軍の敗北は無かった。
逆に言えば、戦線の拡大した闘いにおいて、ハンニバルが席を空けたとたんに各地でローマ軍の反撃を受けたのである

 つまり、ハンニバル以外に優秀な指揮官がいないのがイタリアのカルタゴ軍の弱みであった。
叉、制海権をローマが完全に握っていたので、カルタゴ本国からのイタリア・ハンニバル軍への支援は妨害され続け全く受けられなかった。

 ポエニー戦役の当初紀元前215年頃・反ローマ包囲網を形成していた東・西・南・北の諸情勢はとしては、東はカルタゴ軍と同盟を結んだマケドニアがローマ軍の巧みな戦術で働きを牽制され、南はローマに叛旗を翻したシチリア島のシラクサが、天才数学者・アルキメデスの作戦で健闘したもののローマ軍に破れ、北はガリア民族も緒戦の勝利のみで、後はローマ軍に押さえこまれていたのである。

 紀元前212年。
ハンニバル戦争と呼ぶ第二次ポエニ戦役も7年目に入ろうとしていた。

 ローマ軍の大敵で残るはカルタゴの本国とカルタゴ支配のスペイン・カルタゴ軍とイタリア内のハンニバル軍のみとなっていた。



 
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by kenji1942 | 2008-08-02 16:37 | ローマ帝国の興亡