天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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       ハンニバル・・・16・・次弟・ハシュウドゥルバルの敗死

 紀元前・208年春、スペインにおいてローマの若き総司令官・27歳のスキピオは、ハンニバルの次弟・ハシュウドゥルバルをベクラの戦いで敗走させる。

 ベクラの会戦での敗北は、スペインのカルタゴ軍には、前年にカルタゴ軍の金城湯池であるカルタヘーナをスキピオの速攻で陥落させられた以上の衝撃だった。

 スペイン・カルタゴ軍は、三弟・マゴーネとジスコーネがスキピオの攻勢を凌ぐこととし、イタリア戦線のハンニバルがローマ軍に長靴の端まで追い込まれ守勢にたっているので、バクラの会戦で敗走した次弟・ハシュウドゥルバルに3万の軍勢を率いて救援に赴かせる。

 紀元前・207年春。
ハンニバルの次弟・ハシュウドゥルバルは、3万の精鋭と象部隊をつれてスペインを発進し、兄と同じく現在のフランス一帯であるガリア横断とアルプス越えを敢行する。

 ガリア人たちはハンニバル兄弟の目標がガリアの征服には無関心で打倒ローマである事を知っていたので、どの部族も妨害せずスムーズに通過させた。

 その為幸か不幸か、カルタゴ軍は予想よりもずっと早くイタリアに到着した為、次弟・ハシュウドゥルバルの救援軍はハンニバル軍と合流できず、メタウロ河において単独でローマ軍と相対することとなったのである。

 情報戦が得意なローマ軍執政官・ネロはハンニバル兄弟が合流する前に速攻で次弟・ハシュウドゥルバルの精鋭をメタウロ河の会戦で全滅させる

 次弟・ハシュウドゥルバルは戦闘の結果が明らかになるや、カルタゴ総司令官の正装に着替え、ローマ軍の真っ只中に馬を乗り入れ、壮烈な闘いの末に戦死した。

 イタリアの長靴の端に追い込まれていたハンニバルは、弟の予想以上の早いアルプス越えがわからず、ローマとの情報戦にも遅れをとった為、救援軍と合流できなかった。

 ハンニバルがすべてのことを知ったのは、陣営地をめぐる柵の向こうから投げ込まれた一つの包みによってであった。

 その包みを解くと、中からは次弟・ハシュウドゥルバルの生首があらわれた。
これがハンニバル兄弟にとっては、11年ぶりの再会になったのである。

 メタウロ河の敗戦をうけて、40歳になっていた稀代の戦術家・ハンニバルは「長靴のつま先」にこもったきり、その年そして次ぎの年も出てこようとはしなかった。

 ★★★
劣勢のカルタゴ        

 第二次ポエニー戦争は、ハンニバルがスペインを出発し、ピレネー山脈を超え、ローヌ河を渡り、アルプスを踏破してイタリア半島へ侵入した事に始まる。

 ハンニバルはいたるところで快進撃を続けたが、ローマ軍を何よりも悩ませたのは、ハンニバルに忠誠を誓う傭兵部隊のヌミディア騎兵隊だった。

無敵を誇ったローマ歩兵軍団も、ヌミディアの騎兵にかく乱されるとひとたまりも無かった。

 第二次ポエニー戦争が始まってから、すでに10年近い歳月が過ぎ、ハンニバルはイタリア半島を転戦していたが、ローマ軍はじりじりと巻き返し、戦局はようやくカルタゴ側に不利に傾きかけ、前211年、ハンニバルはイタリア半島のかかとの辺りまで追い詰めれる始末に到った。

 ローマの若き将校・スキピオは、前209年にスペインをカルタゴから奪取。
ハンニバルの弟もローマ軍に撃破され、その首がハンニバルの陣営に投げ込まれてしまう有様となった。
シチリア島もローマの手に渡り、カルタゴの敗色は歴然たるものとなっていた。

 スペインで大きな戦果を得たスキピオは,ローマに戻るや執政官に選ばれる。
こうして、ローマは是までの防衛戦から、一気にカルタゴ攻略に踏み切ったのである。

 第二次ポエニー戦争最後の幕は、ハンニバル対スキピオの戦いとなっていくのであった。

この若き執政官・スキピオは、のちに大アフリカヌスと呼ばれるほどの偉大な英雄である。

まさに英雄対英雄の戦いではあるが、カルタゴの劣勢は覆うべくもなかった。

"
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by kenji1942 | 2008-09-24 11:40 | ローマ帝国の興亡
    ハンニバル・・・15・・・ハンニバルの弟・大敗す

 紀元前・209年における軍事大国・ローマが強敵・カルタゴから勝ち取った二大戦果は、イタリア・都市国家・ターラントの奪還と、スキピオの活躍による大勝利で得たスペイン・カルタヘーナ〔カルタゴの植民地)の攻略である。
 ローマ軍がターラントを奪還できた事により、イタリアでハンニバル側についていた南伊の三大都市国家を全て再興できたことになる。

 古代戦史上における最強・ハンニバルの奮闘により、「ローマ連合」の加盟諸都市が兵力提供
を拒みかけていた時期であったので、この二大戦果は単なる軍事上の成果に終らなかった。

 ターラントの陥落によって、さしものハンニバルも長靴の先端に追い詰められた事になり、「ローマ連合」の解体を目指した戦略は、もはやほぼ確実に挫折したという事になる。

 紀元前・208年春。
スペイン・ローマ軍の総司令官27歳のスキピオは、ベクラの会戦でハンニバルの次弟・ハシュドゥルバルを得意の電撃的な戦略により敗走させる。

 カルタゴ側の戦死者は8千にのぼり、捕虜は1万2千であったが、スキピオ側の犠牲者は数えるほどであった。
カルタゴ人の捕虜はローマに送られ奴隷になる運命である。

 カルタゴ側の捕虜のなかに少年が一人いた。
生地は北アフリカのヌミディアであったが、両親を亡くし、スペインに来たのは若い叔父を頼ったからで、その叔父の名は「マニッサ」であると言う。

 最強の騎兵国家・北アフリカ・ヌミディアの王子・マシニッサはカルタゴ軍に雇われているヌミディア騎兵の隊長である。
それも三年前にスキピオの父を待ち伏せ、戦死までさせた張本人だったのである。

 スキピオは少年に、叔父・マシニッサの許に帰りたいか、と尋ねた。
少年は眼に涙をためて、帰りたいと答えた。

 スキピオは、部下の兵士に、この少年にローマ式の短衣と金の留め金つきの革帯と馬一頭与えるように命じた。
そして騎兵の一隊に、この少年が望む場所まで送るように命じたのである。
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by kenji1942 | 2008-09-18 17:24 | ローマ帝国の興亡