天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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<   2008年 10月 ( 9 )   > この月の画像一覧

          大スキピオへの弾劾裁判

 紀元前264年からはじまった第一次ポエニー戦役と、前218年から前202年までの第二次ポエニー戦役で、ローマは西地中海の強国カルタゴを降した。

 そして、前197年にはマケドニア、前190年にシリアと、東地中海の強国を二つまで降すのに成功した。

 のこるエジプトは、当時弱体化していたうえに、ポエニー戦役当時からすでにローマの友邦になっている。

 地中海世界の覇権は、もはやローマのものだった。
首都ローマは、「ローマ連合」の盟主ローマの首都を越えて,「世界の首都」になり変わり、地中海世界で何かが起きると、王国や首都の代表者がローマに陳情に訪れるようになった。

 覇権者は、力を持つがゆえに、裁定者である事を求められるからである。
ローマ元老院の第一人者となったスキピオ・アフリカヌスは、戦術家としてならば、ハンニバルに大きく一歩を譲ったかも知れないが、政治家としてはスキピオの方が一枚上であったと思われる。

 他者よりも優れた業績をなしとげたり
有力な地位に昇った人で、嫉妬から無縁で過ごせた者はいない。

 ただし、嫉妬は、それを抱いてもただちに弾劾や中傷という形を取って表面化することは,まず無い。

 嫉妬は、隠れて機会をうかがう。その機会は、相手に少しでも弱点が見えた時である。
スキャンダルは、絶対に強者を襲わないからである。

 ザマの戦いで大戦果を挙げローマ救国の英雄となったスキピオも例外ではなく嫉妬の嵐を避け得なかった。

古代ローマ最大の戦略家であるハンニバルのカルタゴを打ち破って、ローマの救国の英雄となり、アフリカヌス・スキピオという尊称で呼ばれ、由緒ある「ローマ元老院の第一人者」の地位を長年独占して来たスキピオであるが、シリアから帰国してきた彼は健康を害していた。

 つまり、スキピオの政敵・大カトー達が見つけたスキピオの弱点は彼の健康の悪化である。
赫々たる戦果を挙げ続けていたスキピオは、王位を願うわけでもなく、独裁を狙ったわけではない。

 スキピオは、自分のなした祖国ローマへの貢献に相応しい、敬意で接してくれることを望んでいたのである。
 そのスキピオに対してのスキャンダルは、兄・ルキピオの使った500タレントの使途不明金の追求と言う名目での実質的なスキピオ弾劾裁判である。

 スキピオへの弾劾はナント17年前、すなわち前205年前のシチリアでの冬営期にまで遡ってのことだった。
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by kenji1942 | 2008-10-26 11:44 | ローマ帝国の興亡
ハンニバルの自決

 紀元前183年、ハンニバルは毒杯をあおいでみずから命を絶った。
65歳の波乱に満ちた彼の人生は、ついに終わったのである。
まさしく、ハンニバルは敵であるローマでさえ認める軍事的英雄であり、且つ大政治家でもあった。

 ハンニバルの急進的な「民主革命」は、多大な富をカルタゴにもたらしたが、カルタゴの特権階級だった貴族層が自分たちの権益を奪取されたことに激しい敵意を抱いたことは当然だった。

 貴族達旧勢力は、ハンニバルが国外の「反ローマ」勢力と秘密裏に連絡を取っているという情報をローマの元老院に告げたのである。

 カルタゴの不屈の将軍はローマの手に落ちる前に、シリア、クレタ、アルメニア等に逃亡したが、ローマ軍の追及は執拗であった。

 今や「尾羽打ち枯らし、飛び去るにはあまりに年老いた鳥」となって居たハンニバルは、追い詰められ「それ程執拗に、そんなにも夢中になって、憎むべきこの老人の死を願うなら、宜しい、ローマ人の心配をおわらしてやろう」、そう言って,彼はついに毒をあおいだのである。

 そして、同じ年、ハンニバルの最大のライバルであった、ローマの将軍スキピオも一歳年下の政敵大カトー等に破れ、不遇のうちに52歳でその人生を閉じるのである。

★★★
 大カトーは第二次ポエニ戦争でスキピオ・アフリカヌスがハンニバルを破り、元老院の中で派閥を形成している事を警戒し、スキピオの弟であるスキピオ・アシアティクスがマケドニアに遠征を行った際の用途不明金を発端にスキピオ弾劾裁判を起こし、大スキピオを失脚に追い込んだ。
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by kenji1942 | 2008-10-24 22:35 | ローマ帝国の興亡
                ハンニバルの追放

 第二次ポエニー戦役の敗者であるカルタゴは、戦後、ハンニバルが国内経済建て直しを図った。

 財源の不足は増税で埋めるのを慣例にしていたカルタゴに,ハンニバルは,経費の節約と使い方の見直しによる経済の再建策を実施する。

 戦術・戦略の天才であるハンニバルは、経済の建て直しでも才能を発揮し、なかなかの実績をあげたのだが、敵も多くつくった。

 ハンニバルの急進的な「民主革命」は、多大な富をカルタゴにもたらしたが、カルタゴの特権階級だった貴族層が自分たちの権益を奪取されたことに激しい敵意を抱いたことは当然だった。

 軍隊の最高意指揮官しかしたことが無く、又自らに強烈な自信をもつ人の常で、ハンニバルのやり方は正しかったのだが強引でもあった。

 もともとカルタゴ人は国論の統一は不得手な人種であったので、ハンニバルのやり方が強引であったこともあり、6年の長い経済再建は我慢がならなかった。

 反ハンニバル派は、彼をローマに訴える。
訴えの理由は、ハンニバルがシリア王と内通していると言うものだった。
 
 貴族達旧勢力は、ハンニバルが国外の「反ローマ」勢力と秘密裏に連絡を取っているという情報をローマの元老院に告げたのである。

 ローマは、アフリカの現状調査と銘打った調査団をカルタゴにはけんすることに決めた。
ローマのハンニバルに対する反感憎悪を知っている、ハンニバルは51歳になっていたが、身の危険を感じ体一つで祖国を脱出する。

 海岸までの道を夜中といえども馬を走らせたハンニバルは、用意させていた舟にのった。
行き先は、シリアの王・アンティオコスの許だった。 

 ハンニバルが去ったカルタゴには、ローマの覇権の下にあることに不満を抱く者はいなくなったのである。
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by kenji1942 | 2008-10-22 11:47 | ローマ帝国の興亡
         カルタゴ  奇跡の経済復興

 第二次ポエニ戦役でローマに敗れたカルタゴは、過酷な条件のもとで再建に取り組まなければならなかった。

 戦後、ハンニバルが国内経済建て直しの先頭に立っていた。
 
 イベリア半島を失い、シチリア、サルディニアといった島々、さらにはアフリカ沿岸の経済拠点を奪われた事は、商売にとっては大きな打撃ではあったが、なまじ海外の版図を持てば、そこを維持し、監視し、防衛するために多くのエネルギーを割かなければ成らない。

 ローマに破れた為に多くの版図を失ったが、かえってその重荷から解放されて、経済活動は大きく自由を得て、逆に多くの富を得た。

 又、ハンニバルによる革命的な国内改革の成功もそれに拍車を掛けていた。
経費の節約と使い方の見直しによる経済の再建策を実施する。

①財政再建
不公平税制の改革に乗り出し、富める者からうんと取り、貧しい庶民への税は軽減するという「累進課税の導入である。

②商業の振興
カルタゴは根っからの商業民族だから、失われた資産を取り戻そうと夢中で商売に励んだ。

 こうして、敗戦から10年もたたない間に、富はまたしてもカルタゴに集まり始めた。
敗戦の結果、身軽になって経済活動を活発化して経済大国となる。

まさに、第二次世界大戦の敗戦からたち上がった日本を連想させるカルタゴであった。

"
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by kenji1942 | 2008-10-21 11:18 | ローマ帝国の興亡

ハンニバルの復活 

  第二次ポエニー戦役はカルタゴの敗北で終る。

                無条件降伏。 

 どのようにして、戦後の復興に手をつけたらいいのか。
反乱こそ起きなかったが、カルタゴ国内は暫らくは無秩序のまま日を重ねた。

 ローマの厳しい賠償取立てに対して、カルタゴの指導者層である、元老院も百人会も
無力な上に腐敗し犠牲は一般の市民だけに重税と言う形で押し付けられた。

 一般市民から構成されている「民会」と特権階級から成る「元老院」と「百人会」は対立する形になり、ついに民会はハンニバルを最高の権力者であるスーフェテス(行政・司法長官)に選出した。

 ハンニバルは敗戦の軍事的責任者でありながら、市民の力を背景に、カルタゴの復興に乗り出す。

   敗戦から五年後の前・196年のことであった。
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by kenji1942 | 2008-10-20 23:04 | ローマ帝国の興亡
   カルタゴの敗北

  和平交渉の使節団がカルタゴとローマの間を往復した。
ローマの代表はスキピオであり,カルタゴの全権はハンニバルにゆだねられた。

無条件降伏!!。
紀元前201年,講和条件は調印される。それはまさしく、カルタゴの無条件降伏だった。
それは、敗者・カルタゴが勝者・ローマの課する一切の要求を、無条件で受諾する降伏であった。

まさに、「ポツダム宣言」の受諾であるといえる。

 ローマの要求は過酷であったが、それをのむ以外にカルタゴのえらぶ道はなかったのだ。
ザマの会戦で大勝したローマ軍司令官・スキピオは、そのまま軍を進めてカルタゴを攻撃し、この都市を徹底的に破壊しつくすことも出来たのである。
 
 講和条約
①カルタゴは、シチリア・サルディーニャ・スペインにある海外のカルタゴ領の領有権を全面的に放棄する。
②カルタゴは、マシニッサが王位につくヌヌミディア王国を公式に承認する。
③カルタゴは以後、ローマと同盟関係にある国や都市に戦いを仕掛けない。
④三段層軍船十隻を除いた全軍船と,軍用に使われている象のすべてを、ローマ側に渡す。
以後カルタゴはアフリカの内外ともに、ローマの承認なしには戦争をしない
⑥賠償金として、一万タレントをローマに、五十年間の分割払いで支払う。
⑦ローマは、以後カルタゴを独立した同盟国と見なし、カルタゴ国内の自治権を尊重する。
カルタゴ領内にローマの基地もおかず、駐留軍も残さない。
又、第二次ポエニー戦役の勃発以前にカルタゴ領土であったアフリカ一帯の領有は、これを完全に認める。

 しかし、この条項には、戦争責任者の処罰は含まれておらず、このポエニー戦役(ハンニバル戦争)でローマが受けた人的・物的損害を考え合わせると、ローマがこの程度の要求で、よくも自制したと考えるほうが妥当であろう。

 完膚なきまでに叩きのめしてしまったら賠償金も取れなくなると言う計算が、戦勝国・ローマの元老院にあったのかもわからない。

あるいは、ハンニバルの政治的手腕がローマ側の譲歩を引き出し、又、スキピオのハンニバルに対する「敵ながら天晴れ」と言う敬意と信頼が、カルタゴを壊滅から救ったのかも知れない。

講和の成立を見届けた上で、スキピオは自下のローマ全軍を率いてカルタゴを発った。
ローマでは、白馬を駆って進む33歳の若き凱旋将軍を、沿道に住む人々花束を投げ、歓声で迎えた。

 スキピオは、これ以後、アフリカを制した者と言う意味で、「アフリカヌス・スキピオ」という尊称づきで呼ばれる事になる。

 かくして17年にわたった第二次ポエニー戦争、いわゆるハンニバル戦争は終結したのであった。 " "
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by kenji1942 | 2008-10-14 17:25 | ローマ帝国の興亡
                 和平交渉

 「ザマの大会戦」に、カルタゴとしては手持ちの最高のカード、すなわち古今東西最高の名将・ハンニバルを送って敗れたのである。

 紀元前・202年。
ザマの大会戦により、17年にわたった第二次ポエニ戦争〔ハンニバル戦争)はローマ執政官・スキピノの大勝利に終わる。

 敗戦の知らせを受けるや完全に動転してしまい、今にも勝ち誇ったローマ軍が城壁に迫るのを眼にする想いだった。

 そこに敗軍の武将・ハンニバルが到着する。
動転してなすすべを知らない長老会議の面々を前にして、ハンニバルは、もはやローマとの講和しか選択の余地は無い、と言った。  

 36年ぶりに故国の危機を救うべく呼び返されたハンニバル、17年にわたってイタリア半島で戦い続け、一時はローマを追い詰めた将軍、その経歴が講和の反対者を沈黙させるに十分だった。

 ハンニバルは謙虚に語る。
「私は9才のとき,亡き父とともに故国カルタゴのあなた方のもとを離れスペインに渡り、36年後に又故国に帰ってきた。
少年時代からの戦争体験で、私は軍事上の技術は十分に体得した心算である。
しかし、法律とか、都市や商業の習慣について、私を教育してくれるのはあなた達である。」

 ここに、戦争の後始末という困難なことをハンニバルは引き受けることとなったのである。

 カルタゴとの講和会議のローマ側の首席代表はスキピオで、カルタゴ側の首席代表はハンニバル。

 かくして戦場であい対した不世出の天才同士が、平和への道を敷く場でも相対することになったのである。
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by kenji1942 | 2008-10-13 18:17 | ローマ帝国の興亡
        ハンニバル大敗す!

 紀元前・202年。
ザマの大会戦により、17年にわたった第二次ポエニ戦争〔ハンニバル戦争)はローマ執政官・スキピノの大勝利に終わる。

 かってローマ軍がさんざん苦杯をなめたあのカンネーの会戦、ハンニバル軍が圧勝したあの戦いが、時と所を変えて逆になりカルタゴ軍は包囲殲滅された。

 作戦の上ではハンニバルはスキピオに勝るとも劣らなかったが、有力な騎馬国家であるヌミディアのマシニッサ王がローマ・スキピオ側についた事と、ハンニバル軍の中核にはあまりに頼りない傭兵しかいなかったのが敗因であった。

 45歳の古代屈指の名将・ハンニバルは、子飼の兵士たちが殺されていくのを見守るしかなかった。

 カルタゴ側の戦死者は三万五千をはるかに越え、叉、二万の兵が捕虜になり、ハンニバル自身は、数騎を従えただけで、ハドゥルメトゥムに逃げた。

 ローマ側の戦死者は、千五百でありスキピオの完勝だったと言える。

 ローマの英雄・大スキピオは過去数回に渡ってハンニバルに敗れている。
その敗戦の中から、ハンニバルの戦略,戦術が歩兵と騎兵の双方を有機的に活用する事によって敵を包囲し全滅に持っていくことにあると喝破して大いに参考とした。

 ハンニバルがアレキサンダー大王を崇敬して戦術を学んだように、スキピオはハンニバルから大いに学んだのである。

 ザマの大会戦ではスキピオが勝ち、ハンニバルが敗将になった。
しかし、カルタゴの滅亡のあとの古代ローマでの民心は、武将としては敵のハンニバルを、救国の英雄であるスキピオより上位におくことで一致している。

 ハンニバルの不幸は、優れた弟子が敵方に出てしまった事であると言える。

★★★
 ザマの大会戦

 スペインを制覇してローマに帰国したスキピオは英雄として称えられた。
スキピオは執政官に必要な年齢に達していなかったが、特例として紀元前205年に執政官に選出された。

 カルタゴとの戦争に決着をつけるため、スキピオは敵本土への直接攻撃を訴えたが、元老院はこれに難色を示した。
クィントゥス・ファビウス・マクシムスや大カトーが反対派の急先鋒となり、結局元老院はこの提案を退けた。

 スキピオはシチリアに派遣され、その地で軍隊を徴募した。
翌紀元前204年、スキピオはプロコンスル(前執政官)として軍団を率い、北アフリカのウティカへ上陸した。

 カルタゴ軍はヌミディア軍と協同して迎撃に向かったが、スキピオはこれを一蹴した。余勢を駆ったスキピオはヌミディアへ侵攻し、ヌミディア王シュファクスを捕縛、自身の保護下にあったヌミディアの王子マシニッサを王に即位させてアフリカにおける同盟国を得た。

 しかもそれは同時に屈強な騎兵をカルタゴから奪い取ることでもあった。
カルタゴはイタリア半島のハンニバルを呼び戻して戦力を再編する一方で、ローマに休戦を打診した。

 ローマの元老院は申し出を了承したが、不測の事態が起きて交渉は決裂した。
カルタゴはハンニバルに約50,000名の兵と80頭の戦象を率いさせて派遣し、スキピオも約40,000名の兵を率いてヌミディアからカルタゴへ兵を返した。

 紀元前202年10月19日、両軍はザマの西方で対峙した。

 ザマの戦いでハンニバルは最初に戦象を突撃させたが、スキピオはこれを予測して部隊を配置していたため、突撃はほとんど威力を発揮しなかった。

 続いてハンニバルは騎兵を偽装後退させた。ヌミディアの協力を得たローマ軍は、騎兵戦力においてカルタゴ軍に勝っており、ハンニバルはこれを戦場から引き離そうとしたのである。

 この策は成功し、両軍の歩兵同士の正面衝突となった。カルタゴ軍は歩兵を3列に並べ、前2列と戦って消耗したローマ軍に予備軍として最精鋭の古参兵をぶつけるという作戦だった。

 しかし、カルタゴ軍前2列の歩兵は戦意が低く、精強なローマ歩兵に圧倒された。
やむなくハンニバルは事前の予想より早く予備軍を投入したが、これも突破はできなかった。

 ここでカルタゴ騎兵を駆逐したローマ騎兵が戦場に復帰、カルタゴ軍は包囲された。歩兵のおよそ半数が降伏し、残りの半数が殺戮された。

この戦いの結果、カルタゴの野戦軍はほぼ消滅し、ハンニバルの無敵神話も崩れ去った。
戦意を失ったカルタゴはローマに和平を願い出た。

 ローマ代表は,スキピオ。カルタゴ代表は,ハンニバル。

 両者で和平交渉をすることとなったのである。
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by kenji1942 | 2008-10-12 19:22 | ローマ帝国の興亡
        ハンニバル・・17・・ザマの会戦

 古代の名将五人をあげるとすれば、必ずハンニバルとスキピオは入る。
叉、現代に至るまでのすべての歴史で、優れた武将を十人上げよと言われても、この二人は確実に入る実績を持っている。

 前202年、カルタゴはローマの執政官・天才・スキピオに追い詰められていた。

 カルタゴの元老院は、この危機に際して、カルタゴを救える英雄は、ハンニバル以外に無いと考え急遽、イタリアから呼び戻す事となった

 万感の思いを秘めてハンニバルは17年ぶりにイタリア半島のかかとにあたるクロトナを出航しアフリカに向かった。・・・・・彼に従った兵士は24000人だった。

 彼はすでに44歳になっていて、片目も失明していた。
時を同じくして、イタリア半島で依然として戦い続けていたハンニバルの弟マゴーネも一万の軍勢を率いアフリカに向かったが、ミラノ付近の戦闘で受けた傷が悪化して帰国の途中で死んだ。

 ハンニバルはスキピオに最後の決戦を挑み、ここにカルタゴの運命をかけたザマの大会戦が始まったのである。

 まさに不世出の英雄同士の対決であった。
ハンニバルが指揮を執るカルタゴ軍の戦力は、歩兵四万六千に騎兵四千の計五万、
それに八十頭の象が加わる。

 一方スキピオが総指揮を取るローマ軍は、歩兵三万四千にアフリカ騎兵王国ヌミディアの英雄マシニッサ率いる騎兵六千の計四万。

★★★
 ハンニバル(BC247~BC183)
       
 カルタゴの名将ハンニバルは、稀代の戦術家・戦略家であった事は間違いない。
ハンニバルが軍隊に推されて最高指揮官の地位に着いたのは、若干まだ26歳の若さであった。
いつの世にあっても、指揮官の頭脳だけでは兵士は動かない。、まして、カルタゴの軍隊の大半は外人部隊、つまり金でやとわれた異民族からなる傭兵部隊との混成部隊だった。

 そうした大集団をどのようにして統率したのだろう。
「威令・それを徹底させる信頼、それを集めるだけの行動力と人柄、それらがかね備わっていないかぎり不可能である。

 ローマの史家・リビウスは、このように評している。
「危険に際してハンニバルが示した計り知れない勇気、と同時に、この上ない判断力、どんな困難も彼の体力を損なったり、気力を挫くような事は無かったし、暑さに対しても寒さに対しても同じように平気だった。

 食べたり飲んだりすることも、あくまで生理的欲求に従うだけで、快楽の為ではなかった。
おきるのも寝るのも夜昼関係なく、仕事が済めば睡眠をとる、それだけの話だった。
眠るといっても、柔らかいベッドだの静けさを求めるわけではない。

 一般の兵隊と同じ外套にくるまって、衛兵や歩哨とともに地上に横になるだけであり、服装も普通の兵士と変わる所も無かった。ただ武具と馬だけが目立つくらいだった。

 騎兵・歩兵部隊のなかにあって、彼は紛れも無く第一人者であった。
戦闘になると、真っ先に進み、戦場をあとにするときは、常に最後だった。」

 やはり、当時の世界で並ぶべき国が無かった超軍事大国・ローマを敵に回して、17年間も戦った英雄だけのことはある。

 アレキサンダー、ナポレオンにも匹敵する率先垂範の鑑でありハンニバルは英雄といえる。 "
 
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by kenji1942 | 2008-10-09 23:13 | ローマ帝国の興亡