天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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第三次ポエニー戦争

カルタゴ人は経済の才能には恵まれていたが、政治的な身の処し方は不得手であった。
ローマ元老院における、大カトーとスキピオ・ナシカ等による微妙なバランスによって成立していたカルタゴ存続への妥協策も無視された。

 敗れても敗れても立ち上がり、経済大国にのし上がるカルタゴ。
第二次ポエニー戦役後、カルタゴは表面的にはローマに忠実なふりを見せている。
賠償金も支払う他、ローマの要求に従順に従っていた。

 しかし、油断はならない。
もともとローマ人にとって、カルタゴ人は理解できぬ性格の持ち主だった。
抜け目無く、狡猾で,嘘つき、金儲けになれば手段を選ばず、人生の愉しみを知らぬ働き蜂。
このような人種が金をもったら何をしでかすか判らない。

 ローマはカルタゴを抹殺する機会をじっと待っていたが、ついにその機会が到来する。

カルタゴの隣国であるヌミディアの度重なる領土侵犯に業をにやして、ついにカルタゴは軍を動かして、ヌミディアの英雄・マッシニッサと対決したのである。

 ローマは88歳で裸馬に乗って戦闘を指揮するという老獪・マッシニッサをそそのかして、カルタゴを挑発し、条約違反の責任を押し付けようとしたふしがある。

ローマがしかけた罠であったと思われる。

 それがカルタゴ攻略の機会を狙っていたローマの元老院に絶好の機会を与えた。
たとえ自衛のためといえども、軍を動かすにはローマとの「事前協議」を必要としたのに、カルタゴはそれを無視した形となったからである。

 ローマの許可なくしてヌミディアと交戦した。
それは明らかな条約違反であると責つけて、ローマはただちに強硬な抗議と要求をつきつけた。

大カトーを首領格とする対カルタゴ強硬派は、元老院での発言力を増し、スキピオ・ナシカ率いる穏健派は口を閉ざすしかなかった。

 紀元前・149年、ローマ軍執政官二人の任地は、アフリカと決まった。
かくして、 経済大国カルタゴを永遠に地上から抹殺する事となる最後の戦い、第三次ポエニー戦争の勃発である。
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by kenji1942 | 2009-01-29 22:30 | ローマ帝国の興亡
          カルタゴの滅亡・・・2

 英雄スキピオ亡き後のローマの大政治家・カトーが声を大にして繰り返したスローガンは
カルタゴ、滅ぼすべし」であったが、いまや、これが大ローマの基本方針となった。

 しかし、ローマの国政を決める元老院議員のすべてが、大カトーに賛成であったのではなかった。

 英雄・スキピオ・アフリカヌスが失脚し世を去った後も、元老院には生前のスキピオの進めた「穏やかな帝国主義」路線に共鳴する者が少なくなかった。

 その代表格が、スキピオの娘婿でもあった、スキピオ・ナシカであった。
ナシカは戦場でも政界でも一級人物であったが、老カトーに対抗してあらゆる発言の最後を必ず次ぎの一句で締めくくった。

 「とはいえ、私は、カルタゴは存続さるべきと考える。」・・・と。

 だが、惜しむらく、ローマでのこの微妙なバランスを崩す事につながる一突きは、実はカルタゴ側からもたらされたのである。

 
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by kenji1942 | 2009-01-29 14:16 | ローマ帝国の興亡
        カルタゴの滅亡・・・1

ローマ人が「ハンニバル戦争」と呼んでいる第二次ポエニー戦役終了後のカルタゴは、属州にもならずに独立した独立国家のままで存続し、50年間と言うものローマの覇権の許で平和に生きてきたが、経済以外は二級の国家に落ちていた。

 軍備は、弱小国相手にしか通用しない水準に落とされ、他国との交戦権もローマの承認無しには行使できないように変わっていた。

 敗戦後、スペイン・シチリアやサルデーニャなどの海外領土の全てを失ったカルタゴは、経済力の基盤を本国・アフリカの農園経営に置き、実に効率的に運営したので生産性は高かった。

 現代からは想像する事も難しいが、古代の北アフリカは、地味豊かな地方で農園経営には最適な地味の、しかも広大な耕地を誇っていた。

 一応の経済力を持つ国ならば傭兵を雇う事は簡単である。
ローマ人は、第一次、第二次ポエニー戦役での辛酸を忘れなかった。誰が、第二の「ハンニバル」が生まれないと断言できるのか・・と。

 古代戦史上最大の戦術家・ハンニバルを撃ち破り、救国の英雄となったスキピオは52歳で死んだが、スキピオの政敵大カトーは、この時期80歳になっても健在であった。

 カトーの反カルタゴ・キャンペーンは執拗を極め、演説の後には、必ず付け加えた。

私は、カルタゴは壊滅されるべきと考える。」

・猜疑から確信へ・・
 再び経済大国にのし上がったカルタゴに対して、軍事大国ローマは苛立ちの眼で眺めていた。

 ハンニバル戦争で無条件降伏をつきつけたのに、敗戦国であるカルタゴが経済的な繁栄を享受し、そのために多くの犠牲を払った戦勝国のローマが財政的にも貿易の面でも大きな赤字を抱え込んでいる。

 なんと言うことだ!。
勝った国・ローマが苦しみ、負けた国・カルタゴが得をする、こんな馬鹿げたことがあってもいいものだろうか。

 ローマはカルタゴを猜疑の眼で見ていた。
その猜疑心のなかには、カルタゴの繁栄に対する羨望・嫉妬、不安・怖れ、怒り・憎悪・・・・あらゆる心情が込められており、それは次第に「カルタゴ脅威論」に結集していった。

 そんな憤懣がローマの元老院の大勢を支配するようになって来たのは、極めて当然の成り行きであった。
ローマの活路を切り拓く道は,ただ一つ,カルタゴの抹殺である。

ローマ人のあいだには、十数年にわたって散々苦しめられたハンニバル戦争の記憶が依然として消えていなかった。
「ハンニバルを忘れるな!」・・これが「カルタゴ滅ぼすべし!」の世論を作り上げていったと見てもいい。
ローマを凌ぐほどの経済力を再び手にしたからには、いつ、又、第二のハンニバルが登場するともかぎらないからである。

 英雄スキピオ亡き後のローマの大政治家・カトーが声を大にして繰り返したスローガンは
「カルタゴ、滅ぼすべし」であったが、いまや、これが大ローマの基本方針となった。
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by kenji1942 | 2009-01-26 15:34 | ローマ帝国の興亡
              マケドニア王国の滅亡

紀元前197年、マケドニア軍、ローマ軍に敗北。
紀元前190年、シリア軍、ローマ軍に敗北。

 マケドニア王・フィリップスは、戦いに敗れた後はローマの覇権を認めたうえでの同盟関係を結んだ。
40歳の男が、その後18年間も、一度としてローマに叛旗を翻す事がなかった。

 フィリップスはアレクサンダー大王の後胤であることの誇りに蓋をして、複雑な心境を心に宿しながらも、 現実への優れた洞察力に恵まれた彼は、マケドニア王国の存続は、もはや新興国・ローマの覇権のもとでしかありえないことと認識していた。

 マケドニア王・フィリップス五世が、58歳で死去したあと、長子ペルセウスが王位につくが、悲しいことに、マケドニア王の誇りだけは受け継いだが、現実を見通す能力は受け継がなかった。

 マケドニアは豊かな鉱山と農業の国である。
ペルセウスは天才・アレクサンダー大王からの伝統である重装歩兵を主力として、オリエント全域から集めた傭兵を加えたマケドニア軍の勢力を5万に迫るまでに育て、ローマに叛旗を翻す。

 紀元前・168年6月。
対峙した両軍の兵力は、マケドニア軍が四万四千、ローマ側はギリシャ派遣軍を加えて三万。

 会戦の前夜は、月食の夜にあたっていた。
ローマ軍執政官・エミリウスは若い頃に占い官を務めた事もあったので、月食の現象に詳しかった。

 あらかじめローマ軍の兵士に、夕方の六時頃から夜の九時までは月が欠けるが驚かないようにと告げていた。
反対にマケドニア軍のほうでは、月食に驚き、それを凶兆と受け取ったので兵士たちの志気は
会戦をしない前に落ちていた。

 翌朝、ピュデナの平原で戦端が切って落とされた会戦は、会戦後一時間で勝負がついてしまった。
月食を凶兆とみたマケドニア軍の戦いぶりが不甲斐ないと言う問題は別にして、ローマ軍・執政官の戦術と副官達の指揮ぶりが、ただ正面からぶつかってくるだけのマケドニア軍を、包囲し、粉砕し、壊滅してしまったからである。

 マケドニア軍の戦死者は実に二万五千、捕虜は六千にのぼったが、一方のローマ軍の戦死者数は、百人にも満たなかったである。

 当時のローマ軍は、第一次、第二次ポエニ^戦役でのカルタゴ軍との熾烈な戦いを勝ち抜き、効率の良い精巧な戦争機械そのものに変貌していた結果である。

 ここに、ローマはヘレニズム三大王国〔エジプト・シリア・マケドニア)のひとつマケドニア王国の滅亡を決めたのである。

★★★

マケドニア

 紀元前7世紀頃、古代ギリシアの民族の一つであるドーリア人により建国されたといわれる。
ギリシア人であることを主張し、古代オリンピア競技の祭典にも参加していた。マケドニアは、王が一夫多妻制を取るなど、ギリシアの他の地域とは違う制度を有していたようである。

 アレクサンドロス大王の時代

 アレクサンドロス帝国紀元前336年、ペルシア遠征を計画していたフィリッポス2世が暗殺されると、その息子アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)があとを継いだ。

 アレクサンドロス大王は紀元前334年アケメネス朝ペルシアへの遠征を開始し、紀元前333年のイッソスの戦いでペルシア皇帝ダレイオス3世の軍を打ち破り、アルベラ・ガウガメラの戦いで再びダレイオス3世率いるペルシア軍を撃破し、ペルシア征服を実現させる。

 ペルシア帝国の征服に成功したのちもアレクサンドロスの東方への遠征は続き、エジプトやインドの外辺まで支配下に治めた。
この世界帝国の実現によって、ギリシャの文化や考え方が各地へと広まるだけでなく、東西文化の交流や民族の融合が盛んになった(ヘレニズム文明)

内紛と分裂

 紀元前323年、アレクサンドロス大王が後継者を決めないまま急逝すると、配下の将軍たち(ディアドコイ)によるディアドコイ(後継者)戦争が勃発した。
その結果として、大王の直系は断絶して帝国は分割された。

 ヨーロッパ側領土にはカサンドロス朝マケドニア、リュシマコス朝トラキアが立ち、アンティゴノス朝が小アジアに拠った。三者の争いの中でアンティゴノス朝が生き残り、アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアの3王国が成立した。

古代ローマの属州に
その後マケドニアは、地中海世界に勢力を拡大するローマの圧力に直面することとなった。

 第1次マケドニア戦争(紀元前214年~紀元前205年)では勢力を保てたものの、第2次マケドニア戦争(紀元前200年~紀元前196年)に敗れたのち、第3次マケドニア戦争(紀元前171年~紀元前168年)の敗北によって、マケドニア王ペルセウスは捕虜となり廃位、アンティゴノス朝は廃止させられ、王国は4つの共和国に分割された。

 第4次マケドニア戦争(紀元前149年~紀元前148年)での反乱がローマに鎮圧されると、紀元前148年ローマの属州の一つ(マケドニア属州)として組み込まれたことで、マケドニア王国は滅亡した。
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by kenji1942 | 2009-01-24 19:50 | ローマ帝国の興亡
             大カトー ・・・ 2

 大カトー陣営による反スキピオの最大の理由は、スキピオの影響いちじるしい元老院による第二次ポエニー戦役後の対外路線に反対であったからである。
つまり、スキピオの進める「ローマによる穏やかな帝国主義」に反対であったのだ。

 カルタゴ・シリアやマケドニアを含むギリシャとの講和に見られるように、穏やかな帝国主義路線は、ローマにとって将来に危険の匂いを持つ政策であったのである。

 穏やかな帝国主義とは
①敗戦国はローマの覇権を認め、ローマの同盟国となる。
それゆえに対外戦争は、ローマの許可なしには不可とする。

②敗戦国の軍備は、自衛力の水準に落とされる。

③敗戦国の国内自衛権は完全に認め、それゆえに、敗戦国はローマに、租税を納める義務を負わない。

 つまり、カルタゴなど敗戦国は、敗れたといえどもあくまで独立国であって、ローマの属州になったわけではない。
ローマは、これらの国々から、講和締結と同時に軍を引き払っている。

 しかし、この穏やかな帝国主義路線は、ローマに破れた全ての国に対して行使したわけではなく、ハンニバルに協力して立ち上がった北イタリアのガリア人、又、カルタゴ勢を追放した後のスペインに対しては、同盟国扱いをしないでローマの属州に組み入れられ、ローマから派遣される総督によって治められ、収益の一割にあたる租税を毎年ローマに支払う義務をおった。

 ローマはこれに対して、街道網の敷設をはじめとする「インフラ整備」と防衛を請け負う
いわゆる「ローマ化」である。
 
 「穏やかな帝国主義」は、軍隊を常駐させないやり方である為に、相手方も納得してそれを許容しない限り、失敗に終る危険性を常に持つやり方である。

 スキピオのやり方にカトーが反対を唱えた真の理由は、失敗に終った場合にローマ人が支払うはめになる犠牲の大きさを危惧したと思われる。

 大カトーは、第一次ポエニー戦役後に寛大な内容の講和を結んだ挙句、その二十年後にカルタゴから不意打ちを食らう結果になった第二次ポエニー戦役を忘れる事が出来なかったのである。


★★★
マルクス・ポルキウス・カトー・ケンソリウス

紀元前234年 - 紀元前149年   共和政ローマ期の政治家。
清廉で弁舌に優れ、紀元前195年に執政官(コンスル)、紀元前184年にケンソルを務めた。曾孫のマルクス・ポルキウス・カトー・ウティケンシス(小カトー)と区別するため、大カトー(Cato maior)やカトー・ケンソリウス(Cato Censorius)と称される。


略歴
 平民の家系の出だが、ルキウス・ウァレリウス・フラックスによりローマに連れて行かれ、その後援によりクァエストル(紀元前204年)、アエディリス(紀元前199年)、プラエトル(紀元前198年)、コンスル(紀元前195年)を歴任した。

 第二次ポエニ戦争後のカルタゴの処遇について、ローマは同盟国として扱うことを選んだが、カトーは元老院で演説を行うときに常に(全く関係無い話題であっても)「ともあれ、私はカルタゴは滅ぼされるべきであると思う」と末尾に付け加えた。

 また、カルタゴ産の見事なイチジクの実を見せて「これほど見事なイチジクを産する国が3日の距離にいる」と言ってカルタゴを滅ぼす必要性を説いた(イチジクは日持ちがせず乾燥させて食べるのが一般的であり、カルタゴから運ばれたイチジクが生食できるほど新鮮であることで、カルタゴの脅威が身近にあることをアピールしたのである)。

 またカトーは、第二次ポエニ戦争でハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)が元老院の中で派閥を形成していることを警戒し、スキピオの弟であるスキピオ・アシアティクスがマケドニアに遠征を行った際の用途不明金を発端にスキピオ弾劾裁判を起こし、大スキピオを失脚に追い込んだ。

著作には農業について記した『農業論』と歴史書『起源論』がある。
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by kenji1942 | 2009-01-20 23:06 | ローマ帝国の興亡
               大カトー ・・・ 1

 ローマの英雄・スキピオ弾劾の首謀者は、カトーである。

 マルクス・ボルキウス・カトーは地方の平民階級から出て首都の政界で成功した人物である。
農民をしていたこの若者は学識も豊かで弁舌が実に巧みであったので、その地方の大地主でもあった貴族のヴァレリウス・フラックスが見出して中央政界に登場させた。

 当時,スキピオの属するコルネリウス一門と主導権を争っていたヴァレリウス一門が、自派の論客として活用しようと考えたからである。

 スキピオより一歳年下であったカトーの政治家としてのキャリアはヴァレリウス一門の後ろだてのおかげで順調にはじまった。

 紀元前205年、会計検査官に選出されたカトーは、シチリアの地でアフリカ遠征を準備中のスキピオ陣営を視察し、スキピオ率いる軍団の金の使いぷりが放漫であるとして、その責任者であるスキピオを告発する。

 しかし、その直後にスキピオはアフリカへ行ってカルタゴと戦いザマで大勝利をあげ、ローマ救国の英雄となってしまったので、カトーの告発もウヤウヤに終ってしまう事となった。

 そのカトーが執拗に追い続けた政治的命題は、スキピオの失脚とカルタゴの滅亡である。

 カトーはギリシャ語を完璧に解し、ギリシャ文化の教養も人並み以上に持っていたが、スキピオのギリシャ好きが有名であったのとおなじくらいに、カトーのギリシャ嫌いも有名だった。

 カトーは、ローマへのギリシャ文化の流入を、ローマ人本来の質実剛健さを損なうものとして憎悪し、ローマの将来にとって有害であると確信していたのである。
 
 又、スキピオによってはじまった個人主義的英雄主義の風潮も、ローマ共和制にとっては害をもたらすものと信じていた。

 王政を排し、少数の指導者達の合議で機能す寡頭政では、一個人の台頭は王政につながるものとして危険視される。

 英雄・スキピオ自身にはその想いがなくても、彼の存在自体がこの危険を内包しているのである。

 300人足らずのエリート達の合議制を基としたローマの共和制の有効さを心から信じ、それを守る為の偶像破壊こそ、カトーに課された天命と確信していた。
 
 かくして、同年輩であるスキピオとカトーの対立は宿命のライバルとなっていったのである。

★★★
 大カトーは第二次ポエニ戦争でスキピオ・アフリカヌスがハンニバルを破り、元老院の中で派閥を形成している事を警戒し、スキピオの兄であるスキピオ・アシアティクスがマこうしケドニアに遠征を行った際の用途不明金を発端にスキピオ弾劾裁判を起こし、大スキピオを失脚に追い込んだ。
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by kenji1942 | 2009-01-18 08:35 | ローマ帝国の興亡
                英雄の死

 ローマの若き英雄・スキピオは第二次ポエニー戦役をローマの勝利に導き、アフリカから凱旋して後、長くローマ元老院の第一人者となって活躍していた。

 しかし、スキピオの健康が衰えてきた時を狙って、政敵・大カトーがスキピオの弾劾裁判を起こし、スキピオを失脚させてローマから追い落とした。

 紀元前183年、スキピオ・アフリカヌスは、りテルノの別荘で死去する。52歳であった。
スキピオの遺言は「恩知らずの我が祖国よ、お前には我が骨を持つことはないだろう」とある。
墓所がローマ領にあったから、代々のスキピオ家の墓に埋葬する事を拒否したのである。

 偶然にも同じ年、ハンニバルも、ローマ軍の追及を逃れ、イタリアから遠くはなれた、又、カルタゴからも遠く離れた黒海沿岸のビテニィアで死んでいる。

 功をあせったローマ軍の一隊長が、ビテニィアの王様にハンニバルの引渡しを要求し、それを知ったハンニバルが、逃亡を諦め、肌身離さず持っていた毒薬を煽ったからである。
ここに稀代の戦術家は、64歳で死を迎えたのである。

 こうして、不世出の英雄であるスキピオもハンニバルも舞台から去った。
第二次ポエニ戦役を体験したローマ人は、鉄の健康を誇り、84歳まで長生きをすることになるカトーを除いて、誰もいなくなり、ローマも新時代を迎えることとなるのである。

 ちなみに、スピキオ失脚の端緒となった500タレントの使途不明金だが、兄ルキウスがマグネシア会戦の勝利後に軍団内で大盤振る舞いをして使ってしまった疑いは残ったとしても、スキピオには濡れ衣であったことが証明される。

 だが、公金横領の疑いが晴れスキピオの無実が証明されるのは、スキピオの死から2年がたっての後だった。

★★★
 大カトーは第二次ポエニ戦争でスキピオ・アフリカヌスがハンニバルを破り、元老院の中で派閥を形成している事を警戒し、スキピオの兄であるスキピオ・アシアティクスがマこうしケドニアに遠征を行った際の用途不明金を発端にスキピオ弾劾裁判を起こし、大スキピオを失脚に追い込んだ。
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by kenji1942 | 2009-01-15 15:12 | ローマ帝国の興亡