天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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 武田勝頼大敗す

 天正3年5月信長は岐阜を出発して三河長篠へ出陣した。
武田勝頼が長篠城を奪回するべく武田騎馬軍団の大軍をもって包囲した為、徳川家康が救援を求めてきたのである。

 長篠城の守備は奥平信昌以下僅か500人。対するに勝頼の武田軍は15000人。
落城は目前に迫っていたが信長の救援は間に合う。

 信長は本陣から二キロ程長篠城よりの「あるみ原」に流れる川ぞいに全兵力を布陣させた。
その戦線は南北に3キロの長陣となった。
川の上流から、丹羽長秀・羽柴秀吉・信長本陣・滝川一益・石川数正・
徳川信康・徳川本陣・本田忠勝・榊原康政・大久保忠世・酒井忠次・・・
織田軍20000人・徳川軍7000人合計3万人の動員兵力であった。

 家康本陣と滝川一益の陣の前には、騎馬武者の突入を防ぐ為に馬防柵が作られていた。
それに対する武田軍は長篠城への攻撃を中断して戦線をあるみ原に進め連吾川を挟んで5000人が信長・家康軍と対峙する。
その布陣は北の山裾のほうから、馬場信春・土屋・穴山・一条・勝頼本陣・小幡・内藤・原・山県昌景である。
山県昌景の突撃から長篠・設楽が原の合戦が始まり鉄砲の威力を見せ付ける。

 信長は3000丁の鉄砲を三段撃ちにして日本最強の武田騎馬軍団を撃滅したもので、
鉄砲の威力を最大限に生かした信長の戦術が効を奏した大勝利であった。

 勝頼は命からがら甲斐に逃げ帰ったが、戦の神様とも言われた山県昌景他の主力家臣団の戦死・崩壊によって、ついに武田軍を立て直すことは出来なかった。

 さらに天正3年8月には越前の一向一揆を攻めてこれを滅ぼし柴田勝家・佐々成政・前田利家らに越前を分割統治させる。
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# by kenji1942 | 2011-02-04 08:18 | ブログ 信長
石山本願寺の11年戦争

 和睦と戦いを間欠的に繰り返す石山本願寺は西国の雄・毛利氏が味方についたので勢いづいて信長に立ち向かっていく。

 両者の和平はしばしば行われたが伊勢長島に続いて越前の一向宗を虐殺された本願寺門主・顕如は大きな衝撃を受け・・「仏法の一大事」と腹をくくり・・・
「本願寺が信長に屈するようなことがあれば一向宗は滅びる」と檄を飛ばす。

 この檄に応じて雑賀孫一率いる強力雑賀衆の紀州門徒・毛利領内の安芸門徒を始め、信長に追われた長島や越前の門徒が陸続と石山本願寺に集結した。

 石山本願寺は宗旨の為に命を捨てることを望む門徒によって護られる。
彼らは恩賞を望まず、兵糧武器弾薬は自分持ちで参戦していた。
宗旨を護る戦いで死ぬことを悦んでいる門徒兵は戦いの場で獅子奮迅の死に狂いを見せるのが常だった。

 信長は石山を取り巻く十箇所に付け城を築き、石山に通じる水路も封鎖して食料の搬入を断つ作戦を取り佐久間信盛を攻撃本部長とした。

★★★
石山本願寺の繁栄

 明応5年(1496)、本願寺8世法主蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立し、これが石山本願寺の起源となった。その経緯を述べた蓮如の御文章は「大坂」という地名が見られる最初の文献である。
 天文元年(1532)、山科本願寺が戦国の争乱に巻き込まれて焼き討ちに合い、逃れた十世証如らは、翌年大坂御坊を本願寺とした。この石山本願寺は、堀・塀・土塁などをもうけて武装を固め、戦国武将細川晴元らの攻撃に備えたため、次第に難攻不落の城砦として強化された。また、次第に寺内町も発展し、 11世顕如の代に本願寺隆盛の絶頂期を迎えた。
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# by kenji1942 | 2011-02-03 11:11 | ブログ 信長
信長と義昭・前久連合軍の戦い

 永禄11年10月(1568年)・・足利義昭・・足利幕府・第15代征夷大将軍に補せられる。
信長にとっての足利義昭とは、どういう存在だったのだろうか?

 「信長の力で将軍にしてやった男で、天下布武の理想に向かって進軍する信長軍の鼓笛手になっていればよい」・・・と言うくらいの認識であった。

 元亀元年一月二十三日、信長は義昭の動きを封じる為に「五箇条の掟書き」を突きつける。
義昭に「お前は政治に手を出すな」・「これまで出した御下知は無効とする」・「これから義昭が出す御内書は全て信長に報告せよ」…これを認めさせた。

 足利義昭は信長に翻弄される。
義昭さえ大人しく信長政権の傀儡として穏やかに暮らしておれば、波風が立たなかったかとも思えるが、義昭とて名門の血を引いているという矜持も強く独自の判断で室町幕府の再建に乗り出すこととなる。 
 
 義昭の登場によって、戦争がこれまでと違って一段と高水準になる。
戦国時代初期の単なる合戦と外交の組合せではなく、殆ど現代戦争の感覚に近い、政治的闘争のドラマとして進化する。

 義昭と信長の戦いに、朝廷サイドの超大物、関白・近衛前久が割ってはいる。
近衛家と足利家は姻戚関係によって強く結び付けられていて、義昭と近衛前久は従兄弟同士なのである。
近衛前久は公家ながら、天才・信長に匹敵するほどの偉才であった。
書は青蓮院流の達人で、和歌や連歌ばかりか、馬術や鷹狩りにも精通していた。

 鷹狩りの要諦と作法は百首の歌に詠みこんだ「瀧山公鷹百首」は、後に秀吉や家康が鷹狩のテキストとしたほどの出来栄えである。

 近衛前久の偉才ぶりは、以前に家康を徳川家の系図と結びつけて徳川家を三河守に任官する道を開いて、大いに恩をうり、、叉、後年、秀吉を自分の猶子(ゆうし)として関白に就任させたのも近衛前久なのだから、政治力の大きさは推して知るべしである。

 
元亀元年一月二十三日、信長は義昭の動きを封じる為に「五箇条の掟書き」を出すが、是は 
政治向きの事は信長に任せ、義昭は朝廷への奉仕だけに専念せよというも同然だった。

 事ここに至って、信長が諸大名を服属させる為に義昭を利用しているだけであるという事が誰の目にも明らかになった。
これによりあまりの屈辱に対して、足利義昭が反信長同盟を構築していくのである。

 義昭は凡庸な人間ではない。
軍事的な才能は無かったが、歴代の足利将軍のなかでは抜群の政治力の持ち主であった。
従兄弟の近衛前久と連携しながら、反信長同盟を構築し、天才児・信長を永らく苦しめていくのは、義昭も戦国時代における英雄の一人であった証左である。

 それが今後始まる元亀天正の合戦の面白さである。
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# by kenji1942 | 2011-02-03 09:47 | ブログ 信長
黒幕・近衛前久

 元亀三年(1572年)に入ると本願寺・武田信玄・朝倉義景・浅井長政が中核となって反信長同盟が結成された。

 信玄を激怒させた比叡山焼き討ちは、信長の敵に対する最大の恫喝であった。
これ以上、陰に廻って妙な事をすると比叡山と同じようにお前達を根こそぎ滅ぼすぞ、ということである。

 石山本願寺に潜伏していながら、反信長連合の構築を画策していた真の黒幕である近衛前久は是でもひるまなかった。

自ら越前一乗谷に出向き、朝倉義景の娘と石山本願寺の顕如の子・教如との縁組を実現する事に尽力している。

 二人の婚約は永禄10年(1567)に足利義昭が取りまとめていたが、義昭が朝倉義景を見捨てるようにして信長を頼った為に立ち消え同然となっていた。

近衛前久が是を実現させようとしたのは、朝倉家と本願寺や越前一向一揆との結束を強化する為であった。

 叉、甲斐の武田信玄と朝倉家の結び付きの強化も狙っていた。
信玄の妻・三条殿は、閑院流藤原氏の当主・三条公頼の娘だが、顕如の妻もやはり三条公頼
の娘なのである。

 つまり、石山本願寺の門主・顕如の息子の教如は、武田信玄にとっては義理の甥に当たるのだから、教如と朝倉義景の娘の縁談をまとめる事で、三者の婚姻関係はより強化されたのである。

 元亀三年(1572)三月十二日、朝倉義景は娘の婚約の祝に太刀と馬を顕如親子に贈っている。

縁組によって互いの信頼関係を構築するのが戦国時代の習いだから、この日を期して三者の同盟が実質的に成ったと見るのだが妥当である。

 信長包囲網を築いたのは足利義昭だと言うのが定説であるが、真の黒幕は、朝廷随一の切れ者である近衛前久であることは疑いのないことである。

 ここに、最強の反信長連合軍の中核である、本願寺、武田信玄・朝倉義景・浅井長政の同盟が構築されたのである。

 本願寺は三好義継らの畿内勢力の結集を進めた。
松永久秀も加わり東西南北からの包囲網が完成し、信玄は信長に焼き討ちされた比叡山とも手を結ぼうとしていた。

信長は絶体絶命の危機に陥ったのである。

 謙信は信長がこの危機を脱するには信玄に先んじて比叡山の再興を打ち出すことと、浅井と和睦する事が必要だと勧める。

 その上で謙信・信長・家康が申し合わせて信玄を討ち、その後で浅井を撃てと言うのである。
いかに謙信・信長がともに信玄を恐れていたかが伺える。

 信玄の西上を阻む為にも、 浅井・朝倉攻めの前に信長・謙信の同盟が成立する。
しかし、謙信は越中・加賀の一向一揆と戦うのに手一杯で身動きが出来なかった。

★★★
 顕如とは本願寺の最盛期を築いた第11代門主である。

顕如は1554年の父・証如の死により本願寺門主の地位を引き継ぎ、同年には門跡に補される勅許が下っている。

そのようななか、1568年、京都に上洛してきたのが、織田信長である。

「天下に武士の世を布く」ことを目的とする織田信長との対決は、避けては通れぬものだった。

はじめのうちは温和路線で信長の矢銭要求も飲み、天目茶碗を送ったりしていた顕如だったが、地方門徒の要望や、織田信長の石山退去命令などもあり、ついに本願寺は11年にもわたる、日本史上ほぼ唯一といっていい、宗教戦争へと流れていくのである。
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# by kenji1942 | 2011-02-03 09:39 | ブログ 信長
信玄西上 三方が原の合戦

 武田信玄は上洛を決意する。
元亀三年(1572年)十月三日・信長39歳の時に武田信玄が満を持して天下盗りを念頭において躍動した。
信玄は上杉謙信を牽制するため小田原の北条氏政と同盟を結ぶ。

 信玄の西上作戦は、勿論・将軍足利義昭と黒幕・近衛前久を軸にしての反信長連合軍である・本願寺・朝倉義景・浅井長政達との連携の上に立案されたものである。

 元亀3年10月3日、ついに信玄は勇将山県昌景に5000人の兵を授けて先発させ、自らは北条氏政の援軍2000人を加えた2万2000人の主力勢を率いて西上へと甲府を発する。

 家康軍もよく闘うがじりじりと圧迫され侵攻される。
信長は佐久間信盛・滝川・平手他3000人の援軍を家康へと派遣するが、織田軍の主力を浅井・朝倉軍に備える為引き揚げていたので信玄と決戦をするなと申し入れていた。

 信玄西上の報は反信長同盟を大変活気づけた。
★ただ、信玄の進撃は遠江の城を一つづづ陥落させているので遅すぎるきらいがあり、信玄の出兵は、西上の為でなく実は遠江征服の為に行われたのだと疑う説もある。

12月22日、家康は「岡崎に籠城せよ」と言う信長の反対を押し切って信玄と激突する。

 信玄は、家康が籠城をいさぎよしとせずに野戦に打ってでるならそれもまたよし。
真正面から闘えば家康などは物の数ではない、一蹴して尾張・美濃と撃破し信長を背後からつく。
三好三人衆や松永久秀、それに足利義昭の兵も近江に攻め行って来て手を貸そう。
六角承禎だって息を吹き返そう。間違っても家康に遅れを取ることはない。・・・

 籠城をすすめる家康の家来達、又信長援軍の将・佐久間信盛らも籠もることに同調する。
そうするほうが良いと言うのは家康も百も承知だった。

しかし、それでは武士の一分が立たない、信玄にも侮られる。
信長だって、いずれの日にかこのことを思い出して侮るかもしれない。・・・・

 そして家康は惨敗する。
有名な「三方が原の合戦」である。

 12月22日の三方が原の合戦で、織田、徳川連合軍は惨敗し、家康は九死に一生を得て浜松城に逃げ帰ったのである。

 戦争は、制作途上の芸術家の作品のように一瞬ずつ生きて動くものであり、あらゆる偶然がそこに参加する。

家康もそんな機微に誘われて無謀な迎撃に挑んだ。
そして惨敗した。

★衆寡敵せず・・・徳川家康軍1万1000人に対し武田信玄2万7000人。

当時の日本最大・最強の聞こえ高い信玄軍に無謀にも家康は戦う。
それも家臣も織田の援将も籠城を勧めているいるのに?

 家康が三方が原に迎撃したのはまず信玄に敵対するという意思表明である。

★籠城するという事は何を意味するか?
家康としては信長・信玄の合戦の勝敗によっては、信長に従うか信玄に従うかを見定めようと言うことだろう。・・・家康も信長も同時にその様に思ったかも知らない。?

 開戦を主張したのは家康一人であった。
信長との同盟・・信義に篤い律儀者との家康評だが、三方が原迎激戦はギリギリの選択だったろう。・・・・トップ家康の孤独な選択。

 家康は、もし信玄の軍が信長勢と互角に闘える程精強であると判断したら信長を裏切って信玄と手を結んでも良かった。

信長も最悪なら家康と信玄が結ぶというケースも予測していただろう。

 そう言う状況下であるから、熟考した結果家臣たちの勧める籠城策は取らず、一見すると無謀とも取れる迎撃作戦を取ったのである。

 やはり、いつの時代でもトップの決断は孤独である。
家康の決断は正しかった。・・結果論として信長に味方したものだけがこの戦国時代を生き残り叛いた者は滅亡している。

 信玄の勝利に勢いづいた足利義昭は翌元亀4年(1573)1月、二条御所で反信長の兵を挙げた。

北には浅井、朝倉、南には伊勢長島一向一揆が迫っているので、信長は四面楚歌の状態におちいり、信長はこの危機を乗り越えるために、義昭と和を結ぶしかない状態に追い込まれる。
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# by kenji1942 | 2011-02-02 06:53 | ブログ 信長
 信長と謙信同盟す

 武田信玄は上洛を決意する。
元亀三年(1572年)・信長39歳の時に武田信玄が天下盗りを念頭において躍動した。
信玄は上杉謙信を牽制するため小田原の北条氏政と同盟を結ぶ。

 信玄の西上作戦は、勿論・将軍足利義昭を軸にしての反信長連合軍である・本願寺・朝倉義景・浅井長政達との連携の上に立案されたものである。

 かくして信長は当時最強の武田軍団に対抗する為上杉謙信と盟約する。
すでに徳川家康は同じ立場から謙信と結んでいたが、信長の盟約はそれを更に強化するものであった。

つまり雄大な『遠交近攻策」である。
こうしたダイナミズムの改編をうながしたものはやはり将軍義昭である。
反信長戦線の結成を訴える義昭の「御内書・ごないしょ」と言う一片の書状がそのうねりを起こさしたのである。
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# by kenji1942 | 2011-02-02 06:50 | ブログ 信長
「信長公記」 比叡山焼き討ち

元亀2年9月12日比叡山の焼き討ちを敢行した。

 「根本中堂・山王二十一社を初め奉り、霊仏・霊社・僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地となること哀れなれ。」・・と殆どの建物と僧俗・児童・智者・上人を殺戮する。

 比叡山焼き討ちは朝廷・政治と結びついて栄華を誇った旧勢力の弾圧として、仏法破滅を強く印象づけた。

これをもって信長が古代以来の旧勢力を否定して、近世の新しい政治と社会を切り開いた革命児と評価する時の象徴する事件としてみなしてきた。

 しかし、信長の側近が記した『信長公記」によれば、焼き討ちの理由を、昨年比叡山が信長の意に背いて浅井・朝倉方についたので、その憤りを散ぜんが為と記し、その結果『年来のわだかまりを散ぜられおわんぬ」としている。

 すなわち焼き討ちは「敵対するものに対する攻撃」だったというのがその本質である。
それに加えて、僧侶らが「淫乱・魚鳥服用せしめ、金銀・まいないにふけって」いた事への反感・批判が憎悪となって容赦のない攻撃に向かわせたものである。

信長の天下布武の戦略の中に最初から旧勢力の武力による壊滅政策があったとはいえない。

 なぜなら、比叡山と並んで旧勢力を代表した東寺(真言宗)や加茂社・北野社・など多くの寺社が当知行安堵をうけている。

大和に二万もの大軍を派遣しても、興福寺・東大寺・春日社・法隆寺は攻撃されていない。
比叡山の方が例外であり、信長は基本的に寺社本所、権門の否定政策は採らなかったのである。

 焼き討ちは敵対者に対する本願寺・一向一揆への見せしめとするためである。

すなわち『政教分離」が最大の狙いであった。
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# by kenji1942 | 2011-02-02 06:43 | ブログ 信長
破壊と創造

 信長の比叡山焼き討ちは洛中を震撼させた。
なにしろ伝教大師最澄が延暦寺を開いて以来,王城鎮護の聖地として洛中洛外の尊崇を集めた山である。

 日蓮や法然、親鸞など各宗派の開祖となった高僧を多数輩出した、日本仏教会の総本山でもあった。
その山を焼き尽くし、僧俗男女を皆殺しにしたのだから、洛中の者たちが「天魔の所業」と評したのもむりからぬことであった。

 比叡山延暦寺は天台宗・山門派総本山として、洛中に種々の領主権を持ち近江・美濃にも夥しい領地・末寺を有していたが叡山は信長にとって壊滅させなければならない敵の軍事拠点であったのである。

 そして延暦寺は美濃・近江の領地を信長に没収・横領されたので朝廷より山門領を返還せよとの綸旨を貰ったが信長は応じなかった為に、山門衆は仏敵信長打倒の怨念に燃えていたのである。

 延暦寺のある比叡山は京都の咽喉部に当たる軍事拠点であり、比叡山を敵に押さえられれば、京都と岐阜の連絡が断たれ織田軍軍事政権の存立が脅かされる。

 かって白川法皇は嘆いた。
「世の中に思うままにならぬものはないが、ただ加茂川の水とすごろくのサイと比叡山の僧衆とは手に負えぬ」・・・当時の寺院は法衣をまとっているが、領地を武力で維持する僧兵を養い実体は大名と変わらない。

 古代勢力の象徴として、鎮護国家の伝統を受け継いできた延暦寺の権威はゆるぎないものであり、そこは俗権の介入できない聖域とされていた。
だが山門の僧侶は奈良興福寺・多聞院英俊が実見して非難するほどの、肉食・女色をほしいままにする破戒の生活を送っていた。

 元亀2年9月11日夜半、軍船で琵琶湖を渡った信長軍は12日未明から坂本に火をかけて比叡山に攻め上り根本中堂を初め山王二十一社に到るまで、山中の堂塔や伽藍を焼き払った。
古来から神聖であるとされてきた比叡山での殺戮である。

 仏法に深く帰依していた武田信玄は「信長は仏敵天魔」だとののしる。

 信長の破壊ばかりが喧伝されているが、同時期に禁裏の修復が完成している。
つまり、皇居の修理と叡山の焼き討ちは同時進行なので、これが信長の行為の両端、
創造と破壊」である。
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# by kenji1942 | 2011-02-01 08:50 | ブログ 信長
信長軍・四面楚歌

 元亀元年(1570年)、当時信長は四面楚歌の状態にあった。
主たる敵は
1・越前の大国、朝倉義景・・これを討てば日本を東西に分断できる。
2・江北の浅井長政・・尾張と京都の交通を断つことが可能。
3・三好勢・六角勢・・一度敗れたがまだ勢力を温存している。
4、一向一揆・・本願寺を中核とする宗教勢力。
5・土一揆・・国人・農民の一揆
6・足利義昭・・将軍としての権謀術数に長け裏に廻って敵対する。
7・比叡山、山門衆徒・・浅井、朝倉に加担する。
8・武田信玄・・精強と武威を誇り家康を圧迫する。

 姉川の合戦の二ヵ月後・元亀元年9月12日、大坂表の三好三人衆勢を叩く為に野田・福島城を攻めている時、ついに一向一揆の総本山・石山本願寺が、信長打倒の大号令を発する。

 同年9月19日・浅井・朝倉連合軍3万が参戦し、宇佐山城にいた織田信治(信長の弟)や森蘭丸の父・森可成がは坂本を死守しようとしたが、圧倒的な大軍に抗しきれず配下の将兵とともに
討ち死にした。

 石山本願寺の突然の挙兵により、信長は南北から六万以上もの大軍に挟撃されるという危機に陥ったのである。

やはり黒幕はいた。
その人こそ、義昭の上洛直後に出奔し、石山本願寺に潜伏していた近衛前久であり、一連の動きを仕掛けた張本人だったのである。

 9月23日にやっとの思いで都に引き上げた信長は、翌日、すぐに近江に出陣した。
織田軍の強さを骨身にしみて知っている浅井・朝倉軍は、正面からの戦いを避けて比叡山延暦寺に立て篭もった。

 信長は比叡山に対し寺の代表者を十人ほど呼んで、信長に味方するか、宗門として中立を保つかの交渉をする。味方するなら横領している山門領は全て返還すると申し入れる。
懐柔と恫喝である。

 近衛前久からも事前に根回しがあったのであろうが、叡山側は是を拒否する。
これ以上浅井・朝倉に見方するなら根本中堂をはじめ全山ことごとくを焼き払うと警告したが叡山の大檀那が朝倉家であったため、比叡山は信長の申し入れを無視黙殺する。

 絶体絶命の窮地に追い込まれた信長は、朝廷に働きかけ正親町天皇に和睦の勅命を出して貰った。
和睦の条件は、信長の横領した山門領を全て返還することと、浅井長政と六角承禎の近江領有を認めることであった。

まさに信長の全面的な敗北に等しい内容であるが、これによって窮地を脱した信長は、12月14日に将軍・義昭立会いのもとに和睦の誓書を交わし、岐阜へと引き上げていった。

このことは信長の性格からして、歯ぎしり噛んで悔しがった事であろう。

 その後、態勢を立て直し長島一向一揆討滅戦などを繰り返すが一向宗徒のゲリラ戦にあって大苦戦をする。
盟友徳川家康以外のまわりは敵だらけでまさに四面楚歌であった。

 流石の英雄も進退に窮したり・・・・・・
しかし、ここからが信長の本領発揮。敵の連繋が整う前の各個撃破である。

 屈辱的な和睦がよほど無念なことでであったろう。
それから僅か9ヶ月後には、勅命も誓書も反古にして比叡山を焼き討ちにすることとなる。

 元亀2年8月頃、この難局を打開するため、僧兵3000人しか居ない比叡山を焼き払うと決定する。

 信長としては、前年暮れの朝倉・浅井との屈辱的な和睦に続く長島攻めの失敗で自分の威光は地に落ちたと感じている。

 この叡山焼き討ちで一矢を報い求心力の回復をはかると言うのが目的の一つでもあったが 
信長は、軍政と政治の一体化という「政教未分離」を嫌い「政教分離」を求めたものである。
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# by kenji1942 | 2011-02-01 08:37 | ブログ 信長
         信長の好敵手・近衛前久

 近衛前久(さきひさ)は天文5年(1536)五摂家筆頭・関白太政大臣・近衛稙家(たねいえ)の長男として生まれる。
織田信長より2歳年下である。

 5歳で元服し正五位下に叙せられた後、11歳で後奈良天皇の猶子(養子とほぼ同じ)となる。
同23年、関白、氏長者、左大臣となり19歳にして藤原一門の最高位につき官位を極める。

 足利義昭を奉じて上洛した信長は参内も許されなかったが、近衛前久は僅か6歳で参内の権利を得ている。

 律令制度や冠位十二階の制が定められて以来、この国は天皇を中心とした身分制度によって治められてきた。
従三位以上を独占した藤原氏が朝廷を支配し、源平争乱を勝ち抜いた源氏が武家の棟梁となって、日本の上位グループを形成してきたのである。

 平安時代の中頃に藤原北家は五つの家に分れ、関白・摂政の地位を独占してきた。
それゆえ摂政を出す家と言う意味で五摂家と呼ばれたのである。
ちなみに五摂家とは、近衛、一条、二条、九条、鷹司家のことである。
五摂家の筆頭は前久の近衛家である。

                     ★★★

 永禄2年(1559)、血気盛んな近衛前久は上洛してきた上杉謙信と血の盟約を交わし、彼と共に天皇、将軍家を中心とした支配秩序を回復する事を望み、永禄3年から2年間越後で謙信と共に過ごすが、関東平定すら夢物語に過ぎず、失意のうちに帰洛。

 近衛前久は朝廷と幕府の再建を果たそうとして、従兄弟の足利義輝と共闘していたが、肝心の足利義輝が、三好三人衆・、松永久秀らの謀反によって討たれ、足利義昭も越前に逃れたまま逼塞を余儀なくされていた。

 この間、将軍不在のままでは、幕府の組織そのものが崩壊するという危機に直面した。
幕府は将軍がいてこそ維持できるので、近衛前久は義輝を殺した三好三人衆と手を組む事には忸怩たるものがあっただろうが、やむなく三好三人衆の推戴する足利義栄を第14代将軍としてこの危機を乗り切ろうとした。

 永禄11年2月8日、近衛前久の尽力によって足利義栄は第14代将軍に補任されたが、風雲急を告げる戦国時代の嵐は、ナントそれからわずか7ヶ月後に足利義昭が信長に奉じられて上洛してきたのである。

 永禄11年9月26日、信長が義昭を奉じて、六角承禎、三好三人衆・松永久秀らを破り、足利義栄を敗退させる。
ほどなく足利義栄は摂津富田で他界する。行年31歳。
腫れ物をわずらっての病没と言われているが,恐らく義昭サイドに寝返った家臣に殺されたのであろう。
都を追われたとは言え、足利義栄が将軍でいる間は義昭が将軍になることは出来ないのであるから、義昭サイドとしては何としてでも義栄を始末しなければならなかったのである。

 永禄11年10月18日に足利義昭は室町幕府・第15代征夷大将軍と参議に任じられ、信長は「関所を廃止する」ほかの新しい旋風を巻き起こして10月24日に悠々として岐阜城に引き揚げた。

 足利義昭から見ると、近衛前久は従兄弟とは言えは敵に加担した裏切り者である。
しかも近衛前久の政敵である二条晴良が足利義昭とのつながりを強めていたので、近衛前久の立場は極めて危ういものとなった。

 そこで近衛前久は、義昭との確執から関白を罷免され、信長が岐阜城へ帰国してから10日ほどして、ひっそりと都から抜け出し、石山本願寺に身を寄せ、その後7年間の流浪の旅に出るのである。

 この後、信長との確執で足利義昭が追放された後、信長のとりなしを受けて帰洛し、信長の旧体制派政策(天皇公家社会、室町幕府、本願寺、守護大名等)のキーパーソンとして、信長の下で外交、調停工作に奔走。

 石山本願寺の和平交渉合意、島津家による九州争乱の調停などに活躍する。
信長の武田攻めに従軍した天正10年、信長は本能寺の変で自害。

 永禄11年から本能寺の変で信長が明智光秀に討たれるまでの14年間、近衛前久と織田信長とは、時には敵となり味方となり、時には魂の触れ合うような親友ともなり、天才は天才を知るというような働きで戦国時代史に大きな足跡を残すのである。

 巷間、信長と義昭との関係の方が喧伝されているが、信長のライバルとして味のある働きをするのは近衛前久のほうがスケールが大きいとも思われる。



 
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# by kenji1942 | 2011-01-31 12:58 | ブログ 信長
信長の好敵手・近衛前久

 近衛前久(さきひさ)は天文5年(1536)五摂家筆頭・関白太政大臣・近衛稙家(たねいえ)の長男として生まれる。
織田信長より2歳年下である。

 5歳で元服し正五位下に叙せられた後、11歳で後奈良天皇の猶子(養子とほぼ同じ)となる。
同23年、関白、氏長者、左大臣となり19歳にして藤原一門の最高位につき官位を極める。

 足利義昭を奉じて上洛した信長は参内も許されなかったが、近衛前久は僅か6歳で参内の権利を得ている。

 律令制度や冠位十二階の制が定められて以来、この国は天皇を中心とした身分制度によって治められてきた。
従三位以上を独占した藤原氏が朝廷を支配し、源平争乱を勝ち抜いた源氏が武家の棟梁となって、日本の上位グループを形成してきたのである。

 平安時代の中頃に藤原北家は五つの家に分れ、関白・摂政の地位を独占してきた。
それゆえ摂政を出す家と言う意味で五摂家と呼ばれたのである。
ちなみに五摂家とは、近衛、一条、二条、九条、鷹司家のことである。
五摂家の筆頭は前久の近衛家である。

                     ★★★

 永禄2年(1559)、血気盛んな近衛前久は上洛してきた上杉謙信と血の盟約を交わし、彼と共に天皇、将軍家を中心とした支配秩序を回復する事を望み、永禄3年から2年間越後で謙信と共に過ごすが、関東平定すら夢物語に過ぎず、失意のうちに帰洛。

 近衛前久は朝廷と幕府の再建を果たそうとして、従兄弟の足利義輝と共闘していたが、肝心の足利義輝が、三好三人衆・、松永久秀らの謀反によって討たれ、足利義昭も越前に逃れたまま逼塞を余儀なくされていた。

 この間、将軍不在のままでは、幕府の組織そのものが崩壊するという危機に直面した。
幕府は将軍がいてこそ維持できるので、近衛前久は義輝を殺した三好三人衆と手を組む事には忸怩たるものがあっただろうが、やむなく三好三人衆の推戴する足利義栄を第14代将軍としてこの危機を乗り切ろうとした。

 永禄11年2月8日、近衛前久の尽力によって足利義栄は第14代将軍に補任されたが、風雲急を告げる戦国時代の嵐は、ナントそれからわずか7ヶ月後に足利義昭が信長に奉じられて上洛してきたのである。

 永禄11年9月26日、信長が義昭を奉じて、六角承禎、三好三人衆・松永久秀らを破り、足利義栄を敗退させる。
ほどなく足利義栄は摂津富田で他界する。行年31歳。
腫れ物をわずらっての病没と言われているが,恐らく義昭サイドに寝返った家臣に殺されたのであろう。
都を追われたとは言え、足利義栄が将軍でいる間は義昭が将軍になることは出来ないのであるから、義昭サイドとしては何としてでも義栄を始末しなければならなかったのである。

 永禄11年10月18日に足利義昭は室町幕府・第15代征夷大将軍と参議に任じられ、信長は「関所を廃止する」ほかの新しい旋風を巻き起こして10月24日に悠々として岐阜城に引き揚げた。

 足利義昭から見ると、近衛前久は従兄弟とは言えは敵に加担した裏切り者である。
しかも近衛前久の政敵である二条晴良が足利義昭とのつながりを強めていたので、近衛前久の立場は極めて危ういものとなった。

 そこで近衛前久は、義昭との確執から関白を罷免され、信長が岐阜城へ帰国してから10日ほどして、ひっそりと都から抜け出し、石山本願寺に身を寄せ、その後7年間の流浪の旅に出るのである。

 この後、信長との確執で足利義昭が追放された後、信長のとりなしを受けて帰洛し、信長の旧体制派政策(天皇公家社会、室町幕府、本願寺、守護大名等)のキーパーソンとして、信長の下で外交、調停工作に奔走。

 石山本願寺の和平交渉合意、島津家による九州争乱の調停などに活躍する。
信長の武田攻めに従軍した天正10年、信長は本能寺の変で自害。

 永禄11年から本能寺の変で信長が明智光秀に討たれるまでの14年間、近衛前久と織田信長とは、時には敵となり見方となり、時には魂の触れ合うような親友ともなり、天才は天才を知るというような働きで戦国時代史に大きな足跡を残すのである。

 巷間、信長と義昭との関係の方が喧伝されているが、信長のライバルとして味のある働きをするのは近衛前久のほうがスケールが大きいとも思われる。



 
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# by kenji1942 | 2011-01-31 11:40 | ブログ 信長
隠然たる近衛前久の力
 
 信長の最大の敵は石山本願寺と言う宗教勢力であった。
元亀元年(1570)9月12日、是まで中立を保っていた石山本願寺と一向一揆が、法主・顕如の号令に従って反信長の旗幟を鮮明にして信長軍に攻めかかった。

 その裏には関白・近衛前久(さきひさ)がいた。
しかし、いかに近衛前久が朝廷の実力者とは言え、世俗の権力とは無縁の石山本願寺をいかにして動かしたのであろうか。

 本願寺が持つ広大な所領と門徒を守り抜くには、朝廷から与えられていた守護不入権を獲得する以外にない。その為には門跡寺院にならなければならなかった。

 門跡寺院とは親王か五摂家の出身者が住職をつとめる寺のことで、朝廷からさまざまな特権を与えられている。 そこで顕如は九条種通の猶子(ゆうし)となり、本願寺を門跡寺院としたのである。

 親鸞聖人の教えを説いて下層の民の支持を集めた本願寺は、巨大化した組織を維持する為に五摂家と結びついたのである。
つまり、本願寺もこの国の支配体制と無縁では生き残れなかったのである。

 この事態は本願寺サイドから言えば、朝廷への従属である。
何故なら法主(ほっす)が五摂家の猶子(ゆうし)にしてもらえなければ、門跡寺院の資格を失うからである。

 朝廷随一の政治家である近衛前久は、この辺りの事情を飲み込んで、顕如の子の教如を前久の猶子(ゆうし)にしている。

 近衛前久が足利義昭との確執から都を出奔して7年間も本願寺に潜伏したのも、顕如に挙兵を決断させる事ができたのも、このような強い結びつきがあったからである。

 かくして本願寺挙兵という事態を迎え、信長は生涯最大の危機に陥ったのである。
その裏に、近衛前久が大きく関与していたのであった。

 近衛前久は足利義昭の従兄である。
叉、義昭は興福寺一条院の門跡となるとき、近衛前久の父・近衛種家の猶子(ゆうし)となっているので、義弟にもなるという二重の縁で結ばれている。

 義昭は信長に奉じられて上洛し、三好三人衆に推されていた足利義栄の病没後に第15代将軍となった当初は、得意のあまり己の力を過信し、三好三人衆に見方した近衛前久を洛中から追い出すようなことをした。

 ところが、義昭は信長との関係が悪化するにつれて、近衛前久の力を借りなければ、反信長連合軍は構成できないという事がいたいほどわかった。

 五摂家筆頭近衛家の力は、それほど大きなものだった。
朝廷ばかりか諸大名や寺社にまで縁故と人脈を持ち,絶大な影響力を保持していた。

 叉、近衛前久は傑物でもあった。
近衛家の嫡男とは言え、何しろ19歳で関白に任じられた俊英で、公卿・堂上人の身でありながら上杉謙信と血判誓紙を交わして越後に下向したほどの行動力の持ち主である。

 叉、家康を徳川家の系図と結びつけて三河の守に任官する道を開いたのも、秀吉を自分の猶子(ゆうしにして関白に就任させたのも近衛前久なのだから、政治力は推して知るべしである。

 かくして、「義昭+朝倉+浅井+本願寺+信玄」と言う反信長連合軍は、近衛前久と言う軸を得て拡大し大いに信長を苦しめるのであった。

★★★

猶子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

猶子(ゆうし)とは、明治以前において存在した他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶこと。ただし、養子とは違い、契約関係によって成立し、子供の姓は変わらないなど親子関係の結びつきが弱く擬制的な側面(その子の後見人となる)が強い。

現代の観点では、「特に目をかけている(被)後見人」と考えると理解しやすい。(当然に厳密な意味では異なってくる。)

元は古代中国において兄弟の子を指したともいわれている。
記録上に残る最も古いケースは源定が淳和天皇の猶子になったことであると言われているが、平安時代後期までは猶子と養子の違いは明確ではなかったと言われている。

貞観14年10月10日の右大臣基経(長良の子)の上表文に自分が叔父である故藤原良房(元摂政太政大臣)の猶子であったことが記されているが、良房に他に男子はなく、蔭位と家産は基経に継がれていることから今日では養子と解されている。

また、具平親王の子・源師房は源氏の姓のまま姉婿である関白藤原頼通の猶子になったが、当時の記録では「異姓の養子」(『小右記』)と書かれている。また、藤原邦綱の子の清邦のように平清盛の猶子になってそのまま平氏に姓を改めた例もある。

鎌倉時代には養子との区別が明確化して武士や僧侶の間にも広まっていった(ただし、後世においても例外的に実子が無かった場合に猶子を相続人にする例も存在したが、これは特例として考えられる)。

猶子の目的としては

1.官位などの昇進上の便宜
2.婚姻上の便宜
3.他の氏族との関係強化
などがあげられる。

1.の代表例としては、足利義満の猶子となった満済や皇位継承の箔付けのために後小松上皇の猶子となった伏見宮彦仁王(後花園天皇)、そして近衛前久の猶子として関白に就任した豊臣秀吉などがあげられる。

2.の代表例としては、藤原能信の猶子として後三条天皇に入内して白河天皇を生んだ藤原茂子や後白河法皇の猶子として高倉天皇に入内して安徳天皇を生んだ平徳子などが有名である。

3.の代表例としては、小山政光の猶子となって同盟を結んだ宇都宮頼綱や羽柴(豊臣)秀吉の猶子となってその後見で家督を継いだ宇喜多秀家などがあげられる。

ただし、稀に不幸な結末を迎えた猶子関係も存在する。兄忠通の猶子になりながら保元の乱でその兄と争った藤原頼長、叔父源実朝の猶子になりながらその叔父を暗殺した公暁などである。
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# by kenji1942 | 2011-01-31 09:19 | ブログ 信長
最大の敵 石山本願寺

 信長の時代に日本の宗教王国のトップは、大坂石山本願寺の第十一代法主(ほっす)の顕如光佐(けんにょ・こうさ)であった。

 石山本願寺は、現在大阪城のある生玉の庄という島に、明応九年(1500年)、本願寺第八代法主蓮如が隠居所として坊社を建てていた。

 第十一代顕如は、永禄七年(1564年)本山殿堂が失火により消失したのを機に、加賀より築城者を招き門徒の協力をえて寺域に三層の城楼、石垣を巡らした堅固な要塞を作った。

 浄土真宗の門徒は、東の端は加賀西の端は周防あたりまで、
五畿内から裏日本・表日本を全部押さえていて約1500万人位いたと思われる。

 本願寺の平成・大修理の模様を12月1日にNHKテレビで放映していたが、あたらしい瓦を門徒が寄進を行ない、その瓦に門徒の名前を載せるがその人数は、1000万人だと言う。

つまり平成18年現在でも1000万人クラスの門徒がいる大集団であった。

 彼らは、(南無阿弥陀仏・なみあみだぶつ)の六字名号を唱えるだけで極楽浄土に行けると言う親鸞の教えを蓮如が広めた教義に雪崩をうって帰依した。

 浄土真宗の一向一揆は各農村の「惣」と結びついていて、領主に対して年貢を払わないのである。
末寺はそれぞれ寺内町を擁し末寺門徒の耕作する田は、寺内町に組み入れられると領主に払う年貢の十分の一を懇志として大坂石山本願寺に寄付するだけでよい。

 当時、謙信・家康・台頭期の信長といえども一向一揆と妥協して共存を図らねばならず
領主の権力は寺内町には及ばないので、一向一揆の平定には各大名も苦労した。

 結局、信長は大坂の石山本願寺を滅ぼさないと、宗教を政治の分野から追い払う事はできないと考えるに到った。
僧侶が現世利益を追求する現状を放置すれば、日本全土が宗教勢力に支配されるかも知れないという危惧を抱いたのである。

 信長の時代は、政治家と宗教家が存廃を賭けて対決しなければならない切迫した情勢下にあった。

そこで、元亀元年(1570年)から天正八年(1580年)まで11年間にわたって本願寺と血みどろの戦いをおこして勝利し、ヨーロッパより100年早く政教分離に成功したのである。
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# by kenji1942 | 2011-01-30 16:30 | ブログ 信長
反信長連合の黒幕は誰か
 
 元亀元年(1570年)越前・朝倉義景をあと少しで討ち滅ぼせると思ったとたん、妹お市の婿・浅井長政の裏切りにあい信長は九死に一生を得て京都に逃げ帰る。
家康謀反と言うのと同じくらいのショックと挫折を味わった。

 室町幕府第15代将軍・足利義昭から発する政治的闘争と言う新しい場面の中で、妹・お市の婿であり、叉、友である浅井長政に対する信頼感は見事に裏切られる。

 浅井長政の思わざる裏切に際して、大将だけが全軍を置き去りにして逃げるという醜態を演じたのは、長政の裏切りに別の危険を察知したからである。
瞬時に信長の脳裡を横切ったのは義昭の裏切りの予感である。

 信長が越前に出陣している間に義昭が信長追討令が出したなら、信長が将軍・義昭の名を借りて上洛させた二十一カ国の大名たちが、敵となって一斉に襲いかかってくる惧れがある。

 あるいは義昭は、「五箇条の掟書き」を突きつけられたときから信長を討とうと決意し、各方面に根回しをしていたのではなかろうか。

 義昭にとっての忌まわしい信長の掟書き:::
元亀元年一月二十三日、信長は義昭の動きを封じる為に「五箇条の掟書き」を突きつける。
義昭に「お前は政治に手を出すな」・「これまで出した御下知は無効とする」・「これから義昭が出す御内書は全て信長に報告せよ」…これを認めさせた。

 よほどの大きな背景がなければ、あの聡明で律儀な浅井長政が裏切るはずがない。
真相を確かめようと、部下を置き去りにして大将だけが一番早く京都に戻り、義昭に事の真相を確かめようとしたのである。

 京都にかけ戻って義昭と朝廷の身辺を調べた結果、白と判明した。しかし、誰か黒幕がいる筈と思ったがその段階ではわからなかった。

 のちのち、大阪石山本願寺の蜂起の段階で、初めて反信長連合軍の黒幕は義昭の従兄弟の関白・近衛前久であるとわかるが、この段階では信長にはわからなかった。
 
 信長は独創的な人間の常として、旧秩序の日常や習慣の中にいる人間を極度に軽蔑していたが、その軽蔑の根底には、人間はもっと自由な生き物だ、もっと新しく生きる事ができるはずだと言う確信があった。

 だから信長は無名の人々を軽蔑せず、むしろ信頼した。 
信長の最初の手兵はたぶん悪童仲間の集合であり、秀吉や滝川一益は、彼が土中から拾いあげた人材である。
関所の撤廃や楽市・楽座はみな庶民の為のものであった。

 ところが、この浅井長政の裏切りから信長の内部で、その人間軽蔑が殻を破って流れ出し、拡大した。
なおさらに人間不信が表立ってこれ以後の信長の戦い方にあらわれるのである。

 信長は残酷な男・残酷な戦争をする・・として衆目が一致するところの戦争の開幕である。
信長はこれまでは、戦場では徹底的に闘ったが、むしろ敵を赦して来た。
まして、むこの町人・百姓を敵にすることはなかった。

 しかし、浅井の裏切りの後からは、容赦なく敵を殺す・・と言う光景が始まった。
明らかに信長における変質である。戦争の仕方の変質であり、その背後にあるのは人間観の変質である。

それが、比叡山焼き討ち・長島一向一揆の大虐殺などを生むのである。

 尚これらは、敵対勢力が反抗するのを、怒りにまかしての行為だけではなく政教分離を厳然と世に知らしめると言う事でもあった。

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# by kenji1942 | 2011-01-30 15:01 | ブログ 信長
 越前・朝倉氏討伐
 
 元亀元年(1570年)四月二十日・信長が京都に上洛してからわずか1年半。
信長は畿内近国二十一カ国の諸大名や国人領主に対して、「禁中ご修理、武具御用、そのほか天下いよいよ静謐のため」に上洛して、朝廷と幕府に参礼するようにと言う触書を送りつけた。

 将軍・義昭のたびたびの呼びかけにも上洛しなかったと言う理由で、朝倉義景を討とうと徳川家康達を率いて越前に攻め込んだ。

 正親町天皇はその前日に「薫物・たきもの」を贈って出陣を祝ったばかりか、二十五日には内侍所で千度祓いを行なって信長の戦勝を祈願しておられる。

 是は、越前・朝倉討伐への出陣が天皇の命令を受けてのものだと言うことを天下に示す為に、信長が朝廷に強要して実現したものであると思われる。
信長は足利義昭の利用価値が段々と低下していると見て、朝廷と直接に結びつく道を模索し始めていたのである。

 あと少しで越前の首都・一乗谷に大進撃という段階で美濃攻め以来の同盟軍である、妹・お市の方の婿・浅井長政の裏切にあう。

信長の不覚であった。
長政は妹・お市の夫で、信長の義弟に当たる。しかも北近江の知行を任せるほど厚遇しているのだから裏切るはずはないと考えていた。

 強力な敵軍を腹背に受けて敵地に立つと言う桶狭間につぐ信長の苦境である。
信長の行動は素早く、二万余の味方軍勢を後に、木下藤吉郎・徳川家康を殿軍(しんがり)にして僅か百騎ばかりで疾風のように京都に帰る。

 これが有名な「金ヶ崎の退陣・のきじん」である。
浅井長政の謀反は信長にとっては深刻な経験であり「挫折」を味わったと言える。
 
 義弟・長政をして裏切らしたものは、いったい誰であろうか。
まず、信長の脳裡を横切るのは、再三反目しているであろう、足利義昭かと疑ったが、この段階では、義昭はまだ信長との協調路線を維持する方針を変えておらず、二条御所で大人しく信長軍の帰りを待っていた。

 この裏切りを仕掛けたのが、義昭将軍でないとすれば、朝廷かも知れない。
朝廷のしたたかさを一番よく知っているのも信長であった。
しかし、朝廷にも不穏の動きは感じられなかったので千草峠を越えて岐阜に帰った。
この段階での近衛前久の実力と裏の動きをまだ信長は察知していなかったものと思われる。

 信長が九死に一生を得て岐阜城に戻っての一ヵ月後、元亀元年6月19日に反信長同盟軍の中核朝倉・浅井連合軍と決戦する為信長は出兵する。

これが信長・三大合戦の一つ、「姉川の合戦」である。

★元亀元年(1570年)は、関が原の戦いの30年前である
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# by kenji1942 | 2011-01-30 09:06 | ブログ 信長
 信長とルイス・フロイス

 宣教師のルイス・フロイスが「日本史」に記した信長の人物像を引用する。

 「信長は中くらいの背丈で華奢な体躯であり、髭は少なく声ははなはだ快調で戦を好み
軍事修練にいそしみ、且つ名誉心に富み正義において厳格であり、睡眠時間は短く早朝に起床した。」

 「貪欲でなく、はなはだ決断を秘め戦術に極めて老練で非常に性急であり激昂はするが平素はそうでもなかった。」

 「信長はわずかしか、又はたまにしか家臣の忠言に従わず一同から極めて畏敬されていた。
又、酒を飲まず、食を節し、人の取り扱いには極めて率直で自らの見解に尊大であった。」

 そして、日本の全ての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をしたが人々は彼に絶対君主に対するように服従した。

 
 信長は戦運が己に背いても忍耐強かった。
彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝・尊崇・ならびにあらゆる異教徒的占トや迷信的慣習の軽蔑者であった。

 形だけは当初法華宗に属して居るような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などは無いとみなした。

 信長が格別愛好したのは著名な茶の湯の器・良馬・刀剣・鷹狩りであり、
目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせる事をはなはだ好んだ。

 何人も武器を携えて彼の前にまかり出ることは許されなかった。
彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては、はなはだ大胆不敵で
万事において人々は彼の言葉に服従した。(松田穀一・川崎桃太訳)

 異なる文化圏からきた宣教師の言葉であるが、従来の文献による信長の行動からみて納得する点が多い。

永禄12年4月(1569年)・・京都・二条城の建築現場でフロイスの陳情を受ける。  

信長はキリスト教に偏見はない。
外国をしっかりと受け止め、その才能や精神を尊重している。

信長は「伴天連が都に居住することについては、自由を与え、日本人が義務として行うべき一切のことを免除する。」と言う朱印状を与え、足利義昭にも同意させる。

ついで、日乗上人との宗論を許す。
宗論に負けた日乗上人が天皇から「伴天連排斥の綸旨」を獲得し、宣教師などを迫害する。

困ったフロイス等が岐阜の信長に陳情する。・・・その時の答えが信長の権力を現す。

「内裏も公方様も気にするに及ばない。

全ては信長の権力の下にある。」・・・・・明晰である。

これによりフロイスたちは又京都に居られることとなった。


★★★

ルイス・フロイス

1532年にリスボンに生まれる。1541年、9歳でポルトガルの宮廷に仕え、1548年、16歳でイエズス会に入会した。

同年、当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。
同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。
このことがその後の彼の人生を運命付けることになる。

1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価されて各宣教地からの通信を扱う仕事に従事した。

1563年、31歳で横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して念願だった日本での布教活動を開始。
日本語を学んだ後、1564年に平戸から京都に向かった。

1565年1月31日に京都入りを果たしたが、フロイスは保護者と頼んだ将軍足利義輝と幕府権力の脆弱性に失望したという。
三好党らによる戦乱などで困難を窮めながらも京都地区の布教責任者として奮闘した。

1569年(永禄12年)、将軍足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城の建築現場で初めて対
面。
既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。

その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている(フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、戦国期研究における重要な資料の一つになっている)。

その後は九州において活躍していたが、1580年の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。

1583年、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。

以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。
この記録が後に『日本史』とよばれることになる。
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# by kenji1942 | 2011-01-29 21:18 | ブログ 信長
信長と宗教

信長にとって宗教とは
わずかしか生きられない人間が抱く「人間の美しい夢」であると捉えていた

 フロイスの「日本史」に曰く。
「信長は禅宗の教えに従って、来世はなく、見える物以外には何ものも存在しないことを確信しており・・・・・・」とある。
 
 フロイスの観察眼は鋭い。
彼は、一見、無神論者のように見える信長が、「禅宗」の教え、すなわち幼児の時からの師僧である禅僧・沢彦の教えに従っている節があると見抜いているようだ。

 禅宗では、偶像崇拝や来世への望みにすがらず、いまここにあるおのれの精神を鍛え、おのれを信じることによって悟りを開く。

 信長の現実主義、合理主義は、まさにこの禅の教えによる所が大であると考えると少し理解できるともいえる。

 比叡山の大殺戮を行ったことで、信長が宗教を認めなかったと言うのは間違いで、信長は宗教は認めるが政治の分野には入ってくるな、という事なのである。

 当時、京都を押さえていた松永弾正から迫害されていたキリスト教の布教を許した。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスやブァリヤーノなどから宗教以外の科学・工業・政治について多くのことを学んだ。

 当時の浄土真宗の門徒は国主に年貢を納めず、その十分の一を懇志として石山本山に納める。
それを領主がとがめようとすると門徒たちから猛烈・甚大な反撃を受ける。
そのため地侍たちはやむを得ず一向一揆と馴れ合いになって年貢を折半するような形になっている。

 その形が続けば信長の目指す純粋封建制度は成立しない。
宗教を政治の世界から引き離すことが信長の政策になる。
つまり、現世利益の追求をやめさせようということなのである。

 あくまで信長に反抗した一向宗は大虐殺を受けるが、信長の政策にしたがった法華宗や・禅寺・キリスト教などは大虐殺を免れているのである。

★★★
ルイス・フロイス(葡: Luís Fróis [luˈiʃ frɔjʃ] 、1532年 - 1597年7月8日)は、ポルトガル出身のカトリック司祭、宣教師。

イエズス会員として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。
戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。
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# by kenji1942 | 2011-01-29 09:30 | ブログ 信長
信長の経済三大政策 その三 撰銭令(えりぜにれい)

 この撰銭令も、楽市楽座と同じで、信長が最初と言うわけでもないが、それを大規模に行ったものである。

 当時、貨幣経済は農民の間にもかなり普及していて、米穀を中心とした物々交換で賄いきれない物資の流通が行われていた。

 貨幣流通の過程で起こる社会現象が、撰銭(えりぜに)であった。
南北朝・室町初期の貨幣とは、、銅一匁(もんめ)の量目を持つ古銭で、中国の唐・宋・元からの渡来銭が主となっていた。

 奈良・平安時代に朝廷で鋳造した和同開珎などの皇朝十二銭は、数が減るにまかされ、それに代わる鋳銭が行われなかった為、中国通貨が通用することとなったのである。

 永録年間には経済の発展に応じた貨幣量の増大が要求されて、永楽通宝が最良質であった為日本の標準貨幣として用いられた。

 日本と中国で作られた模造品の古銭等が悪銭と言われていた。
良銭と悪銭は流通段階でその価値に当然の差が生じるので、商人の間では良銭を集めて悪銭を排斥する傾向がでてくる。
それが撰銭(えりぜに)と言う現象である。

 撰銭が一般化すると経済流通に支障をきたすので良貨と悪貨の交換比率を定める必要が生じてくる。

 信長も足利幕府の前例に習い、経済発展の素地を固める為に、撰銭令を定めたのである。
通用する銭の種類を定め品質によって、永楽銭の二倍、五倍、十倍と交換比率を指示する。

 通用を認めなかった劣悪な私鋳品は全て廃棄するが、撰銭の実施にかこつけての諸物の代価を高値になおすことは禁止する。さらに米による物品の売買が禁止された。

信長はこの撰銭令に違反するものは、厳罰をもって臨んだのである。

★★★

和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)は、708年(和銅元年)に、日本で鋳造・発行された銭貨である。

日本で最初の流通貨幣と言われる。
皇朝十二銭の第1番目にあたる。

直径24mm前後の円形で、中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。

表面には、時計回りに和同開珎と表記されている。裏は無紋である。形式は、621年に発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じである。

律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。
当初は1文で米2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされる
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# by kenji1942 | 2011-01-28 22:57 | ブログ 信長
信長の三大経済政策 そのニ 楽市・楽座

「座」と言うのは組合組織である

 あらゆる商業・工業・技能・料理人・馬借等の運送機関・街道の通行権まで押さえていて、
自由に参入できないようになっていた。

 平安時代の末期から後、諸国の市場は寺社・公家によって、商いの権利を与えられていた。
市場において、ある商品の売買を行おうとすれば、本所と称する寺院・公家の許可を得て「座」と言う組織に入らねばならなかった。

 「座商人」は「座」の権利を保護される為に、座銭というものを本所に納めていた。
「座」の権利は米座・麹座・魚座・油座・などあらゆる商品に及んでいた。

 信長は自らの政権の基盤強化をはかり、軍資金確保のため、市場を「座」の制度から開放し
自由な取引を行わせ商業の繁栄を図る。

 信長が楽市と指定したところでは、誰でも商売が出来る。

 昨日まで百姓をしていたものが自分で作った作物を担いできて売ってもよい。
又、莫大な借財を負った商人が楽市に逃げ込んでくれば、借金取りは追いかけてこれない。

そういった状況を信長が作り出したため、楽市は大いに繁盛し経済組織は活発化した。

 こういった楽市楽座は信長の創意というか、世に無かった制度を初めて作ったではなく、当時狭い地域では少しずつ行われていたが、信長が大々的に行ったものである。

 天文21年(1552)信長が19歳のとき、父・織田信秀はあっけなく42歳と言う若さで亡くなったが、偉大な武将であった。

 信長の父・織田信秀は交易を盛んにする為に流通路を確保したり、楽市楽座の制を取り入れたり、勢力拡大にともなって次々と拠点を移していくなど、他の大名に先駆けて斬新な政策を次々と実行していった。

 戦うには経済的裏づけが重要である事を信秀は、亡父・信定から学んでいた。
つまり、信長の先見性、革新性は、信定・信秀と受け継がれていたのである。

 江戸時代に成立した「人国記」は尾張人を「進走の気強くて、善を見れば善に進み、悪に成れば悪にそみ」と評しているが、東西日本の接点で交通のj要衝と言う地理的条件がこうした気質を育んだのだろう。

 「進走の気強く、分裂質の勝気といえば、織田信長にもぴたりと当てはまるのだから、信長こそ尾張人の風土が生んだ典型的な人間と言えるだろう。
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# by kenji1942 | 2011-01-28 05:21 | ブログ 信長
  信長 三大経済政策 その一 (関所の撤廃)

 織田信長は永禄11年(1568)9月26日、足利義昭を奉じて上洛した。
六角承禎・三好三人衆・松永久秀らを撃破し、彼らに推戴されている足利義栄を敗退させた。
岐阜を出陣してから僅か19日後のことで、まさに電光石火の快進撃だった。

 信長は足利義昭が室町幕府第15代征夷大将軍となるのを見定めて、畿内に数多くあった関所や諸役を廃止することにした。
関所を廃止して旅人の往来を自由にし、庶民に課せられた種々の雑役をなくして負担を軽くしたのである。
 
 下位の者たちに手厚い信長の基本政策を明確に打ち出したのである。
何故なら、関所で通行税を徴収する権利や庶民に雑役を課す権利は、古代以来上位の者たちに与えられた特権だったからだ。

 この施策による経済の発展が日本を中世から近世へ脱皮させる大きな引き金となった。
信長は上洛した後、五畿内のほか支配圏内諸国の関所撤廃を断行した。

 関所は地侍にとって、関銭を取るほかに領地を完全に支配し収奪するため、外部との交流を抑える障壁の機能を果たす重要な仕組みであった。

 彼らは我が領地の百姓から取り立てた農産物を、特定した商人によって売却させ、領内の市場、座を掌握して利益を独占していた。
つまり、関所は地侍の命の源泉であった。(ここから一所懸命の言葉が生まれた)
その結果は小領地が互いに政治・経済面での交流が無いままに孤立を続けることになった。

 信長は関所を撤去し、楽市・楽座の制を導入すれば、地侍の堅固な収奪地盤は崩壊し、物資の大量な供給消費の道が開け、かつ領地内の百姓の完全支配の手段を失った地侍達は信長の元に結集して新たなる軍団を構成することとなると考えたのである。

 信長は関所を撤廃することにより、強力な軍勢と大量の軍需物資の供給ルートを掌握できるのである。
それまでは土地に密着し、小なりといえども我が領地の主人であった地侍が信長から給料を貰うサラリーマンとなったのである。

 関所の撤廃によってどのような効果が上がったのかといえば、恐るべき経済大変動・民度の大拡張が始まった。

 信長は関所を撤廃したときに、下人(当時は農奴のような扱いをされていた)を全て平百姓に変えてしまい、開墾した土地は与えたので農地が激増しはじめた。
つまり自作農百姓を増やしたのである。農地が激増すれば人口が激増する。

 信長は当時の民衆に、大いに生きていく意欲と言うものを与えるとともに、日本を中世から
近世の純粋封建制度に導いた歴史上重大な布石を行ったのである。

これが関所の撤廃の意味するところである。
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# by kenji1942 | 2011-01-27 07:04 | ブログ 信長
    信長の上洛と朝廷

 永禄11年(1568)9月26日、信長は足利義昭を奉じて上洛する。
信長は織田軍の精鋭を率いて東寺に陣した。是は足利尊氏以来、幕府軍が朝敵征伐の為に出陣する時は、東寺を宿所とするのが慣例になっていたからである。

 信長はこれを忠実に踏襲し、これからの織田軍の軍事作戦が朝命を奉じた幕府軍としての行動である事を天下に示した。

 信長上洛の7ヶ月前の2月8日に三好三人衆に擁立されて、室町幕府・14代将軍となった足利義栄は織田軍の猛攻の前に敗退し摂津富田で病没する。

 是により永禄11年10月18日、足利義昭は第15代征夷大将軍と参議に任じられ、従四位下の位ながら昇殿を許された。

 通常昇殿を許されるのは従三位までで、平安時代以来その大半は藤原一門が独占していたが、足利家は北朝を擁立した功績により従四位下ながら参議として昇殿することが認められていたのである。

 10月22日、足利義昭はお礼言上の為に参内し、正親町天皇に太刀・馬などを献上したが、無位の織田信長は同行を許されなかった。

 時代は下克上の真っ最中であるにも拘らず、天皇を中心とした官位体制は健在で、高位を独占した藤原一門が朝廷を意のままにしているばかりか、寺社と結びついて座や市での既得権益を確保していた。

 足利義昭の将軍擁立の最大の功労者でありながら、参内さえ許されないという現実に直面した信長は烈しく怒り、こうした制度を改めなければこの国を変える事ができないという思いが強くなった。

 念願の将軍になって大喜びの足利義昭は、信長に副将軍か管領職につく様に勧めるも、頑として応じようとしなかった。
洛中洛外の人々は織田信長の無欲を大いに賞賛したといわれる。

 信長は無欲だから義昭の勧めを断ったのではなく、朝廷の位階制の中で従四位下でしかない将軍の補佐役に準じる職など、馬鹿らしくて受ける気にもならなかったのだろう。

 信長は官位をあっさり辞退して、生野銀山とか、堺、大津、草津の代官職を望む。
つまり商業権益に着目していたのである。
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# by kenji1942 | 2011-01-26 07:43 | ブログ 信長
 信長と一向一揆

信長には恐るべき敵がいた。
 
 今川・斉藤を倒しても、信玄・謙信などの戦国大名も大敵であったが、もっとも恐るべき敵は一向一揆という浄土真宗の組織である。
封建支配者としての信長の最大の敵であった。

 当時日本の人口は1500万人から1800万人であったが、そのうち半分が浄土真宗の門徒であったと考えれる。
越後・加賀・越中から中国地方にいたるまで布教が徹底していた。

 一向一揆は、浄土真宗を信奉する百姓と地侍の組織である。
恐るべきは、その動員する人数である。何百万という門徒の組織力は、在地の小領主の武力などは寄せ付けない桁外れの強大な武力である。

 彼らはナミアミダブツ(南無阿弥陀仏)の六字名号を唱えるだけで極楽浄土に行けると言う教義に雪崩をうって帰依した。

★★★

 一向宗とは。
阿弥陀仏というのは、インドの王で仏になった人であるが、この人の名前を唱えるだけで、現世で罪業を重ねて暮らす人々・漁師・農民・兵士など人を騙して殺生を繰り返す者も、在家のままで僧籍に入り、学問をして戒律を守らなくても、極楽往生できるという親鸞の教えを蓮如が広めたものである。
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# by kenji1942 | 2011-01-26 06:30 | ブログ 信長
 したたかな朝廷

 信長が足利義昭を奉じて入京したのは、永禄11年(1568)9月26日である。
それに先立つ8月7日に、信長は佐和山城へ出向き、足利義昭の上洛に協力するよう近江の六角(佐々木)承禎に申し入れた。

 しかし、六角承禎(ろっかくじょうてい)は三好三人衆や松永久秀と気脈を通じているので峻拒したために、9月七日には4万の大軍を率いて近江に攻め入った。

 信長は自ら馬をだして観音寺城の敵情を視察し、信長直属の重臣である、佐久間信盛、木下藤吉郎、丹羽長秀を差し向けて凄まじい攻撃をした。

 六角承禎は凄まじい織田軍の戦いを目のあたりにして、とても太刀打ちできないと観念し、夜のうちに観音寺城を脱出した。

 朝廷のしたたかさは、信長が観音寺城を落した翌日に、早くも勅使を送っているのである。
朝廷の目的は
①信長の上洛は天皇も了承している。
②洛中での軍勢の乱暴狼藉を禁じること。
③内裏と周辺の警固を依頼すること。
であるが、直近の7ヶ月前の2月8日には、三好三人衆が奉じる足利義栄を征夷大将軍に任じたばかりであるから、この朝廷の変わり身の速さには驚きである。

 陣中に信長担当の公卿を帯同していたからこその素早い朝廷の使いであるが、以前から朝廷は時代を読む感覚を備えていた。

 織田信長は永禄10年11月から「天下布武」の印章を使い始めるのであるが、時を同じくして、永禄10年11月9日に、ナント、時の天皇である正親町天皇からの綸旨が届いたのである。

 綸旨にいわく「このたびの尾張・美濃の統一は・・・古今無双の名将・・・・」・と信長を持ち上げるのである。

この時代では、武田信玄・上杉謙信・北条氏直・毛利輝元他の戦国大名が割拠している頃であるから、いかにお世辞?とはいえ、やっと二国を統一した新出来大名の「信長」を見い出した視力は、正親町天皇が時代の流れにもっとも鋭敏な政治家である証左と言える

★★★

 正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))

 第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。

 諱は方仁(みちひと)。
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# by kenji1942 | 2011-01-25 20:31 | ブログ 信長
信長と義昭

 義昭を奉じて戦い、難敵を打ち払って上洛し義昭を将軍にしたものの信長は、ほどなく幕政の実権をめぐって義昭と鋭く対立するのである。

 義昭は凡庸な人間ではない。
軍事的な才能は無かったが、歴代の足利将軍のなかでは抜群の政治力の持ち主であった。

 義昭は、たとえ名目であっても現職の将軍が持つ権威と言うものをよく知っていて、それを有効に使う術に長けていたのである。

 いろんな出来事のあるなか、信長と義昭の対立が抜きさしならないものになり、天正元年(1573年)7月に義昭が宇治槙島城に立て籠もり信長に叛旗をひるがえした。 

 しかし、信長が攻撃するとたちまち破れて、義昭は河内若江城(大阪府東大阪市)の三好義継を頼って落ち延びた。
ここに足利幕府は第十五代足利義昭で実質的には終焉を迎えたわけである。

 しかし、義昭を追放したものの信長には新しい幕府をつくるつもりは無かったので義昭の子息(後の義尋・よしひろ)を擁立した。

 幕府を滅亡させたとみられると、、義昭に呼応する反信長勢力が一斉に蜂起する恐れがあったからである。

又これは、自分に従う光秀ら幕府衆への配慮でもあったと思われる。
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# by kenji1942 | 2011-01-25 06:41 | ブログ 信長
  信長 上洛する

 信長は足利義昭を擁し、六角承禎らの妨害を排除して上洛に成功する。
信長35才の秋である。

 足利義昭を将軍につけて「室町幕府」を再興するという大義名分を掲げるも、その実信長は独自の天下統一政権を志向していたことは間違いない。

 義昭は、「御父信長」というような感謝の言葉を連ね、五畿内で望む領国をあたえようとか、副将軍の座につけようとかを申し入れるが、信長はあっさり辞退して、生野銀山とか、堺、大津、草津の代官職を望む。官位を有難がる気持ちは全く無かった。
つまり商業権益に着目していたのである。

 ところが、天下布武を掲げての全国統一作業は難航する。
反織田信長連合軍は、時に信長を破滅の淵に追い込むことがしばしばあった。
その窮余の一策として、征夷大将軍には朝廷にお願いする権利があったので、将軍になりたかった。
自分に反抗する征夷大将軍・義昭を頼りにするのがもどかしかったのである。

 しかし、公家社会は信長の武家社会がなお強力になることを嫌い、将軍になるには源氏でなければならないという理由で拒否した。
信長は尾張の国主であった頃は、藤原姓を名乗っていたが、上洛の後は平信長と改めていたのである。

 武家社会には、、源平交代思想が伝統として信奉されていた。信長は源姓の足利将軍家に変わり、天下の政権を掌握するために、平姓を名乗ったのを逆手に取られて、将軍の座に着くのを妨げられたのである。

 しかし、その報いは意外なところに現れた。
平姓幕府創始の希望を達せられなかった信長は、鬱積する不満のはけ口として名香・「蘭麝待」を所望して公家社会を威圧したのである。

 名香蘭麝待は東大寺正倉院に秘蔵されている、唐・天竺にまで聞こえた名香である。
現在までに「蘭麝待・ランジャタイ」を切り取ったのは、足利義満・織田信長・明治天皇の三人だけである。
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# by kenji1942 | 2011-01-25 06:35 | ブログ 信長
 信長と鉄砲 雑賀衆

 紀州の根来衆はほとんど信長に味方したが、一向門徒である雑賀衆は石山本願寺に入り徹底的に反信長戦線に力を注いだ。

 雑賀衆と根来衆は、鉄砲の使用法に習熟し、傭兵隊として恐るべき猛威を発揮していた。
諸国の大名・土豪に誘われ、転戦して莫大な報酬を受け取ると、鉄砲製造の費用に当てる。

 天文13年(1544年)から元亀元年(1570年)までの26年間に、彼らは信長でさえ組織できなかった巨大な鉄砲軍団を結成していたのである。

 石山合戦のときの雑賀衆の鉄砲隊は常に2,000丁ぐらいが本願寺の先頭に立っていたらしい。
彼らに一斉射撃をやられると、織田軍の精鋭も退却せざるを得ない。
そう言うすさまじい威力をもっている。

 信長はそれを骨身にしみて思い知らされたのである。
それほど深刻な打撃を経験させられて、信長は初めて鉄砲の威力を再認識したのである。

 それが、当時の日本一の強大な武田騎馬軍団を、大量の鉄砲の一斉射撃の猛烈な威力によって撃滅することが出来たのである。

 鉄砲3000丁を三段に分けての一斉射撃で武田騎馬軍団を撃滅した作戦が、信長の創意であると言われているが、このようにすでに、雑賀・根来の傭兵軍団の先人がいたのである。

鉄砲は東洋に伝来したが、日本のみがその製造に成功した。
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# by kenji1942 | 2011-01-25 06:34 | ブログ 信長
信長と種子島・・・根来衆

 中国大海賊・「王直」の乗るポルトガル船が種子島に漂着して、アルカブース(鉄砲)という珍しい兵器を伝えたと言う噂が紀州に伝わった。

 天文13年(1544年)・信長が10歳のとき、紀州の地侍・津田監物がアルカブースを和歌山に持ち帰った。

 津田監物の兄は根来三坊の一に数えられる大坊である、杉の坊の僧・明算であった。
根来寺は当時僧兵2万余を常備し、戦力は延暦寺を遥かに上回っていた。
根来衆は雑賀衆と同様に、諸国の合戦に傭兵となって参加し、莫大な報酬を得ていた。

 真言宗を奉ずる根来衆と、浄土真宗門徒である雑賀衆(一向宗門徒)は、宗教観において対立していたが、根来衆は剽悍無類の雑賀衆を敵に廻すのをはばかり、表面では互いに不可侵の関係を保っていた。・・・これが、当時の紀州の情勢であった。

 津田監物は種子島から持ち帰った新兵器を兄の明算に見せ、根来寺の門前町に住む鍛冶師・芝辻清右衛門に鉄砲の製作を教えた。
刀槍などの刃物を鍛造する技術にすぐれた日本の鍛冶師は鉄砲製作の技術を短期間で習得した。

 ここに、雑賀、根来では鉄砲の製作が盛んに行われ、次第に外国から伝えられた種子島銃よりも性能のよい銃を作れるようになって行った。

 信長が本格的に鉄砲を生産させる職人集団として国友鍛冶を置いたが、鉄砲生産の最初は紀州と堺である。

 新義真言宗を信仰する根来衆は、浄土真宗門徒(一向門徒)の雑賀衆とは、ことごとく対立し、同じ紀州の地縁もかえりみず、大半が信長に味方していた。


 雑賀衆の棟梁は、有名な雑賀孫一である。(司馬遼太郎)
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# by kenji1942 | 2011-01-25 06:33 | ブログ 信長
足利義昭は(天文6年・・1537年)、足利幕府12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。

 長男の足利義輝が13代将軍を継ぐことが決定していたため
義昭は6歳のとき、関白・近衛種家の猶子(相続を目的としないで結ぶ親子関係の子の称)
として大和の興福寺一乗院に送られ「覚慶」と名乗る。

当時の一乗院は、大和国内に広大な領地をもち、さらに京都の大覚寺等を末寺とする裕福な寺であった。

 「覚慶」は一乗院で修行に励み、門跡覚誉が亡くなるとそのあとをついで一乗院門跡となった。

 その後、彼は「権少僧都」の位 に進み、名門興福寺の有力者になる道を着実に歩んでいた。
世が世ならば、「覚慶」は、尊敬を受けながら僧侶としての生涯を終えたであろう。

ところが、予期せぬ事件が覚慶の人生を一変させることになった。

 永禄8年(1565年)兄の13代将軍足利義輝が三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友)と松永久秀に京都二条御所で暗殺されたので、細川藤孝らの助けを得て一乗院を脱出し
近江甲賀郡の和田家に逃れ、そこで還俗して「足利義秋」と名乗り、将軍となる意思を表明する。

 義秋はその後、近江から若狭を経て越前の戦国大名・朝倉義景を頼り、そこで永禄11年、「足利義昭」と改名した。
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# by kenji1942 | 2011-01-24 06:39 | ブログ 信長
 
 美濃・尾張を掌中にし、三河の徳川家康と同盟を結んだ信長は、その圧倒的な力を背景にして安濃津城(津市)の長野藤定と神戸城(鈴鹿市)の神戸具盛を屈服させた。

 長野家には弟の織田信包を藤定の養子として、神戸家には三男の信孝を具盛の養子として送り込み、両家を支配下に組み込む事に成功した。

 信長の美濃・伊勢での華々しい働きが諸国に伝わり、越前一乗谷で名門・朝倉家の庇護のもとにいた足利義昭の耳にも達した。

 足利義昭は朝倉義景の力を借りて上洛を夢見たが、義景はいっこうに腰を上げようとしない。
業をにやした義昭は永禄11年に朝倉家を見限って信長を頼ることとした。


 永禄11年(1568年)に織田信長は美濃(岐阜県)の立政寺に足利義昭の一行を迎えた。

 対面を実現させたのは、義昭の側近・細川藤孝と明智光秀だった。
まさに、信長と光秀の運命的な出会いであったと言える。

明智光秀の若い時のことはよくわかっていないが、美濃の守護・土岐氏の一族とされる。

 光秀は何らかの理由から故郷の美濃を離れ牢人となって京都に向かう。
そこで、有職故実や古典に対する深い教養・上方の上級武士・文化人との人脈が形成されたものと思われる。

 その後、諸国を浪々の末、越前の戦国大名・朝倉義景に仕え、そこで義景に庇護されていた義昭に取り立てられて足利義昭の側近になったものと思われる。

 永禄11年7月 岐阜に義昭を迎えた信長はただちに上洛戦を開始する。

 同年9月には尾張・美濃・伊勢の軍勢に、同盟者となった徳川家康の三河の軍勢を加えて出陣すると、近江観音寺城の六角氏や三好三人衆を一蹴して入京し瞬く間に畿内を平定した。

 そして同年10月、足利義昭が第十五代将軍に任官するのである。

 入京直後から、光秀は信長に任命された奉行の一人として行政に辣腕を振るい、一方では
義昭の側近衆の一人として、筆頭格の細川藤孝と肩を並べるまでに成る。

このように、光秀はこの時期には、同時に信長・義昭の二人の主人に仕えたのである。
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# by kenji1942 | 2011-01-24 05:54 | ブログ 信長
 永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で今川義元を打ち破ってのち、再三に渡って美濃に侵攻するも、父・斉藤道三を撃ち破った斉藤義龍を支える美濃衆の結束は固く、その力は侮りがたいものがあった。

 永禄4年(1561)5月・斉藤義龍が脳卒中で突然倒れ35歳の生涯を閉じる。
跡を継いだ斉藤龍興は元服したばかりの14才であり、美濃一国を統治する才覚はないと思われたのも当然であった。

 信長の美濃征服は時間の問題だと思われたが、美濃衆の反抗は激しく信長は幾度となく兵を進めるが、そのたびごとに押し戻される。
信長が美濃を支配できるまでには、桶狭間の合戦から実に7年もの歳月を費やす事となる。

 永禄10年(1567年)・・8月15日・信長・斉藤龍興を追って稲葉山城に入城。
その地を岐阜と改める。
臨済宗の禅僧・宗恩沢彦(そうおんたくげん)の撰である。
周の文王が岐山に興ってついに天下を平定したと言う故事にもとずくという。

 ついで、永禄10年11月から「天下布武」の印章を使い始める。
時を同じくして、永禄10年11月9日に、ナント、時の天皇である正親町天皇からの綸旨が届いたのである。

 綸旨にいわく「このたびの尾張・美濃の統一は・・・古今無双の名将・・・・」・と信長を持ち上げるのである。
この時代では、武田信玄・上杉謙信・北条氏直・毛利輝元他の戦国大名が割拠している頃であるから、いかにお世辞?とはいえ、やっと二国を統一した新出来大名の「信長」を見い出した視力は、正親町天皇が時代の流れにもっとも鋭敏な政治家である証左と言える。

そこで、「天下布武」とは何か?
今日「現在」の姿を改革する。

 天才信長に比肩するナポレオン曰く・「余は常に2年後にのみ生きている」・・と。
つまり、ナポレオンには、「現在」と言うものが存在しなかったのだ。
絶えず将来を見据えての行動といえる。

 信長の精神にとっての現在と言うものは、常に新たに創造すべきもの。・・であり
天下の規模において「現在」を改変すること。、
この一点を視ながら行動する。・・
未来を予測して、仮案を立て幾たびもシュミレーションをして後実行する。

 天才ほど常人以上に努力する・・と聞くが信長も同じで、酒もあまり飲まず、小食で
外部では想像出来ないほどの努力をしていることを近習は肌で知っているから、皆が
恐れながら尊敬の念を抱くのである。

★★★
正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))

第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。

諱は方仁(みちひと)。
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# by kenji1942 | 2011-01-23 21:32 | ブログ 信長