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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
       「日本史の謎」である。

       クーデターへの前触れ   足利義昭の追放

 元亀3年9月付けで信長は足利義昭に17ヵ条の意見状を突きつける。
第1条では義昭に朝廷への奉仕を説いており、信長自らを天皇を直接支える武臣と位置づける。

 その第10条では、元亀という元号が不吉であるから改元をするようにという勅命が幕府に下ったのにも拘わらずなされていない。
これは勅命を奉ずることが「天下の為」なのだから油断をしてはならない。

 第17条では、悪しき御所として殺害された将軍足利義教の例を持ち出して義昭の反省を求める。

 「天下静謐」を実現する為に朝廷をないがしろにしないようにすべきことを義昭に認めさす。
 このように、義昭と信長の政治的地位が逆転し、元亀4年7月に義昭を追放する。

 これは、義昭公方が宇治槙島城(京都市)に立て篭もって「御謀反」したので、信長がやむなく退治した結果、将軍義昭が「御牢人」となったとしている。

 このことは、あくまでも「天下」を掌握している信長が「公方」である義昭を支えていたものであって「天下」に従わない「公方」は結局は追放・牢人とならざるを得なかったのである。

 信長は義昭を追放した後すぐ様「公方」を否定したのではない。
信長は人質として義昭の子息を「大樹若君」として庇護推戴した。

 人物としての義昭は否定したが「公方」そのものを否定してのではない。
つまり、義昭を追放したことにより、室町幕府まで否定したと思われたくなかったと言うことである。

 一般的に義昭の追放で室町幕府は終焉したと言うことになっているものの義昭は、その後、備後の鞆で反信長活動を続け、光秀にも食指をのばし後の本能寺の変などにも多大な影響を持っていたのである。

 
# by kenji1942 | 2011-02-09 09:23 | ブログ 信長
本能寺の変

 天正10年(1582年)6月1日信長の命により秀吉の援軍として中国に出陣した光秀は途中で明智左馬助他の一門や重臣斉藤利三・藤田伝五らに決心を打ち明けて全軍を東に向かわせた。

 翌・6月2日未明に京都に入った光秀軍13000人は本能寺を取り囲みトキの声をあげて鉄砲を打ち込み攻め込んだ。

本能寺の変である。

 戦いつつ死ぬ・・まさに信長にふさわしい死である。
「明智が者と見え申し候と言上候へば、是非に及ばずと、上位候」

 森蘭丸を初めとする少数の小姓衆以外軍勢を持たなかった信長は弓や槍で応戦したものの肘に傷を受けて御殿の奥に退き、炎の中で自刃して果てた。

★★★
 信長は毛髪と言わず骨と言わず何物も地上に残さず消え去る。・・・不思議だ。
本能寺が炎上したのは2時間程度・・・たったそれだけの時間で何物も残さず灰燼に帰すと言うのも面妖である。
このことから、本能寺の地下にある火薬庫に火を入れたのではないかと言う怪説もある。

妙覚寺に居た嫡男信忠も二条城に移って後討ち死にする。
信長49歳・・信忠26歳 
戦争に明け暮れていた人生が予期せぬ謀叛により終結した。

腹心こそ、一番用心しなければならない・・・・・君主論・・マキャべリの政治学
# by kenji1942 | 2011-02-09 08:42 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                   「日本史の謎」である。

 天正10年(1582)6月日未明、光秀は本能寺を襲撃して信長を自殺させ、さらに二条城を囲んで嫡子の織田信忠を討滅した。

 このことは光秀単独の行動だろうか、誰か別の人間と示し合わせての行動だろうか。永遠の謎に迫る為この行動の直近における光秀を取り巻く人間関係を見直してみる。

 巷間言われているような、信長の理不尽な光秀いじめが原因で、本能寺に生じた一瞬の隙間に対して光秀がとっさの判断でクーデターを起こした・・・この怨恨説は最近の研究では少数派になってきた感がある。

①光秀から上杉景勝への協力要請の書信
②義昭から小早川隆景にあてて、京都への軍事行動の催促。
③光秀の政権構想は、信長を倒してのち義昭の京都帰還と足利幕府再興である。
④光秀から紀州惣国一揆への出陣要請

 これらから読み取れるのは、光秀がクーデターを一瞬の判断で起こしたので無く用意周到に準備の上行動したのだろうと言う推測が立つモノである。
# by kenji1942 | 2011-02-09 08:39 | ブログ 信長
本能寺前夜

 天正10年(1582年)3月11日・宿敵武田家を滅亡させて4月21日安土に凱旋した。
朝廷は勅旨を派遣して正親町(おうぎまち)天皇・誠仁(さねひと)親王からの祝勝の品を届け、信長を太政大臣か関白か将軍にしようと言う天皇方の意向を伝えたが、信長は返答せずに彼らを送り返した。

 信長は神戸信孝に命じて四国攻めを命じる。
一方、備中に侵攻した秀吉は城々を落とした天正10年5月毛利の将清水宗治を高松城に水攻めで囲む。

 城は水中に孤立し毛利は救援の大軍を派遣する。
総帥毛利輝元をはじめ、吉川元春・小早川隆景の両川以下全力を挙げての来援だった。
まさに織田・毛利の全面対決である。

 信長は自ら出馬の上毛利方と決戦し、あわよくば九州までも統一しようとして5月29日上洛し本能寺に宿泊した。
小姓以下40人前後の少人数であった。・・・将に油断。

 法華宗の本能寺は京都町衆の寺院で、堺から鉄砲を仕入れる取引の際には仲介者としての役割をつとめていた。

 翌・天正10年6月1日、信長は本能寺に博多の豪商島井宗室らを招いて茶会をもよおした。
毛利服属の先にある九州貿易・博多の掌握へと手を打っていたのである。

 信忠や公家衆・僧・商人らも訪れ、夜には囲碁の名人本因坊算砂が碁の相手をした。

そして、信長は最後の眠りに付いた。
# by kenji1942 | 2011-02-08 09:09 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
          「日本史の謎」である。

 信長は将軍になりたかった。のである。??

 信長の政策決定に深く寄与した文官には、松井友閑・武井夕庵・楠正虎らの僧形の側近集団がブレーンとなって信長の諮問を受けていた。

 彼らは日常的に信長に侍し、学者・官僚・外交官・秘書官・書記官などの役割を幅広くこなしていた。

 信長・「天下布武」の「天下」観に密接に関わる問題として、源平交代思想がある。
源平交代思想は足利家の源氏将軍を否定して、それに代わって将軍位を狙う信長によって初めて意識されたとする。

 信長ははじめは忌部姓(いんべ)・藤原姓であったが義昭との対立の為、信長の家系を桓武平氏の末裔として世間にも宣伝されたように平氏を称する。

 信長は足利義昭を追放しながら、なお義昭の子息・足利義尋を庇護せざるを得なかったのであるが、畿内から室町幕府関係勢力を一掃した天正3年以降、源氏将軍にかわる平氏将軍として本格的な政権を樹立することを目指したのである。???

★★★
信長による、この平氏将軍の試みは征夷大将軍は源氏でなければならないと言う朝廷の巧妙な駆け引きで頓挫することとなる。
このあたりから、本能寺の変の裏側で明智光秀に影響を与えたのが朝廷関係者であるとの説が生まれる由縁である。

 それにしても信長が忌部姓(いんべ)・藤原姓として、後に平氏と称するというのは
織田政権を引き継いだ秀吉の「日輪の子」生誕説よりはマトモに思える。
叉、徳川家といえども似たようなものであるとも言われる。
# by kenji1942 | 2011-02-08 09:03 | ブログ 信長