天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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    ハンニバル・・・12・・・・ハンニバルの弱み

 人類の歴史上において、国の危機には多くの国で国論は分裂する。
・・がローマではそれは起きなかった。

 この国論の分裂が無かったということが、ハンニバルに徹底的に敗北した後でもローマが生き残った真の強さの基である。
叉、「ローマ連合」も南イタリアがハンニバルの勢力下に入ったあとでも、ドミノ式離反は起こさず、同盟諸都市も植民地も「ローマ連合」に留まり続けたのである。
 
 それだけ、ローマの属州統治が善政そのものであった証左と言える。

 幾多の戦闘においてローマ軍に死傷者が出たことは勿論であるが、ハンニバルの側でも、少しずつ、だが、確実に彼の手勢は減少しつつあった。

それでもハンニバルは支配下地方からの徴収で軍勢の補強はできていたが、その兵力を指揮できる将軍がいなかったのである。

 ハンニバルが陣頭に立った闘いでは、カルタゴ軍の敗北は無かった。
逆に言えば、戦線の拡大した闘いにおいて、ハンニバルが席を空けたとたんに各地でローマ軍の反撃を受けたのである

 つまり、ハンニバル以外に優秀な指揮官がいないのがイタリアのカルタゴ軍の弱みであった。
叉、制海権をローマが完全に握っていたので、カルタゴ本国からのイタリア・ハンニバル軍への支援は妨害され続け全く受けられなかった。

 ポエニー戦役の当初紀元前215年頃・反ローマ包囲網を形成していた東・西・南・北の諸情勢はとしては、東はカルタゴ軍と同盟を結んだマケドニアがローマ軍の巧みな戦術で働きを牽制され、南はローマに叛旗を翻したシチリア島のシラクサが、天才数学者・アルキメデスの作戦で健闘したもののローマ軍に破れ、北はガリア民族も緒戦の勝利のみで、後はローマ軍に押さえこまれていたのである。

 紀元前212年。
ハンニバル戦争と呼ぶ第二次ポエニ戦役も7年目に入ろうとしていた。

 ローマ軍の大敵で残るはカルタゴの本国とカルタゴ支配のスペイン・カルタゴ軍とイタリア内のハンニバル軍のみとなっていた。



 
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# by kenji1942 | 2008-08-02 16:37 | ローマ帝国の興亡
      ハンニバル・・・11・・・カンネ会戦の勝利報告

 ハンニバルはカンネの会戦の後に勝利を知らせる為、末弟・マゴーネをカルタゴ本国に送る。
カルタゴ元老院の議員は、会戦で討ち死にしたローマ兵の指から抜き取った金の指輪で山が築かれたのを見てどよめいた。

 しかし、ハンニバルの属する他国への進出派とはl、常に確執の仲であった国内重視派の巨頭・ハンノンは、マゴーネに質問する。

 「ラテン民族の中でどの部族が我々カルタゴの側に寝返ったのか。
叉、37もあるというラテン植民都市の中で、どれくらいが戦線から離脱して、ハンニバルの軍に投降してきたのか」

 マゴーネは老齢の有力者に答える。
「いえ、ひとつもありません」。

 ハンノンはローマを支える植民都市や同盟諸都市の市民に、ローマを見離す気配が無い事を
知って依然としてローマの強大さを確信する。

 ハンノンは提案する。
「ハンニバルが奇跡的にアルプスを越えて後に連戦連勝し、叉、カンネの闘いで大勝利を収めたと雖も、敵のローマ連合はいまだに強大である。
従ってこの時点でローマと講和を結ぶ事が最善の策である。」・・と。

 しかし、カルタゴの大勝に酔うカルタゴ元老院はこの策をとらなかった。
叉、ローマもこれを望まなかった。

 ああ、惜しむらく。歴史にイフは無いとは雖も、
この時点で講和をしておれば、地上からカルタゴの生滅と言う不幸は無かったかもわからない。

 ハンニバルは、四度の敗戦で自信を喪失したローマが、シチリアとサルデーニャと南イタリアを放棄するのを条件として講和を提案する。
つまり、第一次ポエニー戦役でカルタゴが失ったものを全て獲得したいと思ったのである。

 ハンニバルから講和打診をローマは拒絶した。
ローマからの回答を知ったハンニバルは、捕虜である8000人のローマ市民兵全員を奴隷としてギリシャに売り飛ばした。

 戦役続行の意志を明らかにしたローマでは、元老院議員の全員が不動産以外のすべての財産を供出すると決めた。
叉、戦費確保の為の戦時国債が発行され、無産階級を除いた全市民にもそれぞれの経済力に応じて割り当てられた。

 紀元前215年ローマは危機的状況に陥っていた。
東はカルタゴ軍と同盟を結んだマケドニア・南はローマに叛旗を翻したシチリア島のシラクサ・南はカルタゴ傘下のスペイン、北はガリア民族、そして、イタリアの中には最も手強いハンニバルがローマを狙っていたのである。
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# by kenji1942 | 2008-07-24 20:12 | ローマ帝国の興亡
      ハンニバル・・10・・・カンネーの戦い

 紀元前・216年、ローマは市民集会を開き軍勢を増強し春の戦闘再開に備えた。
二人の執政官が一日交替で総指揮を取る戦力は、歩兵8万人、騎兵7200騎、総計82700である。
紀元前・216年のローマは、可能なすべてを対ハンニバル戦に投入したのである。

 一方、冬営地のブーリア地方で待ち受けるハンニバル軍は、歩兵4万人、騎兵1万騎、総計50000である。

 ハンニバル軍は、軍勢5万人の食糧確保の為カンネの村を襲撃する。
カンネは、ローマが同盟諸国内の随所に築いてあった食料貯蔵用の基地のひとつであった。

 ハンニバルはカンネの村のすぐ背後に立つ丘に陣営を築きそこでローマ軍を迎えた。
イタリア半島での最大の会戦となったカンネーの戦いは、ハンニバル軍5万・・ローマ軍8万であったが、ローマ軍は壊滅的打撃を蒙ってしまった。

ハンニバルの戦いの基本的な戦法は
テナイア(ぺンチ)と呼ばれる陣形で、前線の中央部に歩兵を置いて敵を誘い、深追いさせた所で、両側から騎兵が囲い込み、殲滅させるという得意の戦術である。

ローマ軍はこれまでも、この作戦にひっかかり散々な敗戦の憂き目にあっているのに、カンネーの決戦でもまんまと引っかかり、カルタゴの大勝利に終わる。

まず、ローマ騎兵はアフリカ一の騎兵軍団・ヌミディア人の騎乗力の敵ではなく殆ど殺された。
叉、7万のローマの歩兵団は、まるで絵に描いたかの如くの見事さで、5万のハンニバルの兵士達に四辺を囲まれ壊滅した。

ローマ側の戦死者は全滅に近い7万人とも言われ、司令官も命を落とした。
是に対してカルタゴ軍の損失は5千5百人で、そのうちの三分の二はガ傭兵のガリア兵であった。
如何にハンニバル軍の圧倒的な勝利であったかが判る。

 その全歴史を鳥瞰しても、ローマがこれほどの敗北を喫したのは、このカンネの会戦が最初にして最後になるのである。
 
 ただ唯一の幸いは、後々、カルタゴを打倒するローマの若き天才・コルネリウス・スキピオ19歳が逃げのびていた事である。
若きスキピオにとって、ハンニバルの戦術の妙に触れるのは、これで三度目になった。

 カンネのハンニバルの陣営では、完勝の夜は喜びで爆発しそうであった。
幕僚達は、時をおかさずにローマ攻略を進言したが、31歳の勝利者・ハンニバルは、ローマの崩壊は、「ローマ連合」の崩壊によってしか実現しないと信じていたので耳を傾けなかった。

 ハンニバルは、あくまで初心貫徹。
つまり、「ローマ連合」の解体というイタリア進攻を決意した時の基本戦略を変更しなかったのである。

 将官の一人はハンニバルに向かって言った。
「あなたは勝利を手にすることは知っているが、その勝利を生かす事は知らない」・・と。
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# by kenji1942 | 2008-07-18 10:56 | ローマ帝国の興亡
        ハンニバル・・9・・・ローマ危うし

ローマ軍は、ハンニバルに連戦連敗する。
  
 トラジメーノの戦いに大勝しながら、ローマを一気に突く事を急がなかったことで、ハンニバルの戦略が、この戦いの二年目にして多くのローマ人にはっきりとわかった。

 まず、「ローマ連合」の加盟諸国の領土を重点的に焼き討ちして略奪する。
次いで、それを座視する事が許されないローマ軍が出動して来たところで、会戦し挑発してカルタゴ軍の勝利に結びつける。

 会戦での勝利が重なるたびに、同盟諸都市のローマからの離反も増加する。
最後に、外堀が埋められた状態でのローマを攻め、壊滅する。

第二次ポエニー戦役における、前216年8月2日の夜、ハンニバル軍の指揮官達は口々に、ただちにローマに進撃すべきであると主張した。

ローマは高速道路・フラミニア街道を驀進すれば三日の行軍距離に、勝利に気をよくした5万の敵軍を迎えることとなり、戦々恐々、恐怖のどん底に追い込まれた。
まさにローマは風前の灯の危機にあった。

 もしハンニバルが将軍達の意見をいれて、ただちにローマ攻撃に移っていたら、ローマは潰えていたかもしれなかった。
だが、ハンニバルはその進言を拒否した。
ハンニバルは、この時点での本丸への攻撃よりも、まずは、ローマの「外堀」をうめるつもりであったのである。

 天才的な軍略家のハンニバルには、ローマ攻撃・包囲戦が長期持久戦になるだろうし、そうなるとローマ側に立つイタリア諸都市が一致して背後からハンニバル軍を脅かし、糧道を立たれる事を怖れたのである。

 しかし、あまたの戦術上の予想よりも、カルタゴ人特有の考え方が、ローマ攻撃をハンニバルに思い留まらせたと見るべきであろう。

 それは、もともと海の民であるカルタゴ人は領土的野心を持たなかった。
カルタゴ人にとって都市はあくまで経済活動の拠点に過ぎず、それを征服し、占領し、統治するなどと言うのは、およそ無駄な事であり、この上なくわずらわしい努力に思えたのである。

 かくして、ハンニバルはローマをめざすことなく南イタリアに向かって行ったのである。

 ハンニバルの目は、弱りきった都市ローマに注がれていたのではなく、カルタゴの重要な基地であるスペイン、シチリア、サルディニア島、イタリア全体に配られて、カルタゴ貿易網を復活させるのが本意であった。

 つまり、カルタゴ人の目的は「富の追求」であり、都市はそのための機能さえ果たせば、それで十分だったのである。

 ローマは強大である。
ローマ市民兵は、共和国ローマの領内だけにいたのではない。
ローマが全イタリアに70以上も建設した植民都市(コローニア)にも、ローマが信頼できる市民達は住んでいたのである。

 この人々が、首都ローマを攻撃中のハンニバル軍の背後を突くという可能性は充分にあったのである。
従って、当初にハンニバルが如何に連戦連勝したと言っても、叉、ローマまで三日の行程だからといって、簡単にローマを突くと言う事はゆるされなかったのである。

 やはり、ハンニバルは勇猛果敢な猛将だけではなく、知略縦横で戦略的な側面を当初から持っていたのである。
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# by kenji1942 | 2008-07-17 18:54 | ローマ帝国の興亡
         ハンニバル・・8・・・イタリア遠征2年目

 共和制・ローマでは執政官は常に最前線に派遣される。
戦争における敗戦の責任者は十字架刑に処して殺してしまうのを慣例にしていたカルタゴ人と違って、ローマ人は敗将を罰しないのを伝統としていた。

 これは、ルネッサンス時代の政治思想家・マキアヴェツリが大絶賛している制度である。

それはローマ人が戦う将軍に後顧の憂いなく戦場での指揮に専念してもらう為であると述べている。
カルタゴ人ともギリシャ人とも違ったローマ人のこのやり方は、不幸にして敗将となった者に、雪辱の機会を与えることにもつながった。

 もしも敗北の原因が指揮官としての能力の欠如にあれば、自らも兵士であるローマ市民は、二度と執政官に選ばないであろうし、敗将でも能力ありと認められれば、執政官への再選出もありえるのである。

 ローマは、紀元前367年のリキニウス法成立を境にして、国家の要職の全てを貴族だけではなく平民にも開放すると言う方針を確立していた。
それによってローマの最高位者である二人の執政官に平民階級出身者も選ばれるのが恒例になっていた。

 アルプス越えのハンニバルに敗れて重傷を受けた、ローマの執政官・コルネリウス・スキピオは
敗戦の責任を取らされることもなく、能力を買われて執政官と同格の絶対指揮権を与えられる・前執政官に任命され一万の兵とともにスペインに派遣され、ハンニバル不在の後背地の切り崩しを狙っていた。

 紀元前217年、ハンニバルはイタリア遠征の2年目を迎え30歳になっていた。

 前・217年4月19日、トラジメールの湖畔での戦闘はローマ軍の惨敗に終り2万5千のうち1万7千が戦死して、ローマまで逃げ戻れたのは2千を数えるに過ぎなかった。

 ハンニバルを意識して増強までした二個軍団をローマは丸ごと失ったのである。
ハンニバル側の損失は2千に留まった。
しかもそのほとんどはガリア兵でスペインから連れてきたハンニバルの精鋭は、今度もほとんど手つかずで残ったのである。

 かくして、ローマはトレッピアの敗戦でアルプスの南側のガリアを放棄せざるを得なくなったのに続いて、トラジノールの敗戦で、トスカーナ地方まで敵の手に委ねる事となった。
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# by kenji1942 | 2008-07-08 14:10 | ローマ帝国の興亡
        ハンニバル・・7・・・カルタゴ軍の連戦連勝

 紀元前・218年、ハンニバル・カルタゴ軍によるイタリア遠征の一年目は輝かしい戦績で飾られた。
ローマは数ヶ月前まで制覇を完了しつつあった北イタリアを完全に放棄したのである。

 この勝利によってそれまで北イタリア・ポー河周辺でローマ側についていたガリア族、叉、どちらにつくか迷っていた部族も、もはや一斉に勝利者であるハンニバル軍の許に馳せ参じ、たちまちハンニバル軍は2万6千人から5万人にふくれ上がった。

 ハンニバルは恭順を表して次々に訪れるガリアの族長に応対しながらも、この北イタリアでいかに多くのガリア人の加勢を得てもそれでローマを陥落させられるとは思っていなかった。

 ハンニバルは、この闘いで勝ち取った捕虜達から情報を聞きだした後に、彼らを「ローマ市民兵」と「同盟諸国の市民兵」とに二分して待遇に完全な差をつけた。

 「ローマ市民兵」には食事さえ充分に与えず、過酷な労働に使役したりして痛めつけた。
反対に「同盟諸国からの兵士達」には、充分な食事を与え、手足を縛ることもなく火の傍で暖を取ることまで許した。

 それを暫らく続けた後で、ハンニバルはローマ市民兵の捕虜だけを殺して、同盟諸国からの兵を集めて彼らに言った。

 「私は、ローマ連合全体を敵視しているわけではない。
私の敵は、ローマだけである
お前達には今、身代金も要求しないで自由を与える。
それぞれの国に戻って、ここで起こったことと私の言った事を同胞に伝えるのだ。

 ローマから離反してカルタゴの側につくならば、ハンニバルは、敵と見ないで味方と認め、それらの国の自由と独立と安全を保証すると、確言したと伝えよ!!」

 古代戦史上最大の天才軍略家のハンニバルは、30歳にも満たない若者であったが、最強の軍事大国ローマを陥落させるには、「ローマ連合」の鉄の結束にクサビを打つ事が肝要であると強く感じていたのである。

 アルプスを越えてまでイタリアを戦場とするのに執着したのは、同盟諸国のローマからの離反を誘発する為であった。

 そして今後の戦場は、「ローマ連合」の領域であるルビコン川以南で闘うこととした。
カルタゴ軍の強さ、ハンニバルの輝くような戦略的才能を鮮やかに示して見せる為にである。

★★★
 ハンニバル(BC247~BC183)
       
 カルタゴの名将ハンニバルは、稀代の戦術家・戦略家であった事は間違いない。
ハンニバルが軍隊に推されて最高指揮官の地位に着いたのは、若干まだ26歳の若さであった。
いつの世にあっても、指揮官の頭脳だけでは兵士は動かない。、まして、カルタゴの軍隊の大半は外人部隊、つまり金でやとわれた異民族からなる傭兵部隊との混成部隊だった。

 そうした大集団をどのようにして統率したのだろう。
「威令・それを徹底させる信頼、それを集めるだけの行動力と人柄、それらがかね備わっていないかぎり不可能である。

 ローマの史家・リビウスは、このように評している。
「危険に際してハンニバルが示した計り知れない勇気、と同時に、この上ない判断力、どんな困難も彼の体力を損なったり、気力を挫くような事は無かったし、暑さに対しても寒さに対しても同じように平気だった。

 食べたり飲んだりすることも、あくまで生理的欲求に従うだけで、快楽の為ではなかった。
おきるのも寝るのも夜昼関係なく、仕事が済めば睡眠をとる、それだけの話だった。
眠るといっても、柔らかいベッドだの静けさを求めるわけではない。

 一般の兵隊と同じ外套にくるまって、衛兵や歩哨とともに地上に横になるだけであり、服装も普通の兵士と変わる所も無かった。ただ武具と馬だけが目立つくらいだった。

 騎兵・歩兵部隊のなかにあって、彼は紛れも無く第一人者であった。
戦闘になると、真っ先に進み、戦場をあとにするときは、常に最後だった。」

 やはり、当時の世界で並ぶべき国が無かった超軍事大国・ローマを敵に回して、17年間も戦った英雄だけのことはある。

 アレキサンダー、ナポレオンにも匹敵する率先垂範の鑑でありハンニバルは英雄といえる。 "
 
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# by kenji1942 | 2008-07-06 21:11 | ローマ帝国の興亡
         ハンニバル・・6・・・・・第一回戦・・1

 ローマ軍執政官・コルネリウスはハンニバルと始めて闘う部下達を鼓舞する。
「諸君は、新たなる敵と戦うと思ってはならない。
我々はカルタゴ軍を23年前の第一次ポエニー戦役で撃ち破ってシチリアとサルデーニャを得た。
つまりハンニバルのカルタゴ軍は敗者の残党である。
しかも彼等は、アルプスを越えてきた時点で戦力の三分の二を失い、その上に餓えと寒さに苦しみ汚物にまみれ、岩石で傷ついた兵士達だ。
ローマ軍は必ず勝てる!!」

 カルタゴ人の陣営でもハンニバルが兵士達を集め彼らの士気を鼓舞する。
「我々はローマ軍を撃ち破る為にはるばるとアルプスを越えてきた。
お前達には、ローマ軍との最初の闘いから、勝つかそれとも負けて死ぬかの道しか残されていない。

 お前達がローマ軍に勝ちさえすれば、シチリアやサルデーニャと言わずローマ人が持っているもの全てはお前たちのものになる。
ローマ人が支配している土地の全ての支配者はお前達になるのだ。

 兵士達についてきている奴隷達にも闘うならば自由にすると伝えた。叉兵士一人につき、二人のローマ人を奴隷として与えるとも約束した。

 戦争終了後には、お前達の望む国に土地を与える。
租税は子の代まで免除だ。土地より金貨を望むものには応分の金貨を与える。

 戦争は必ずカルタゴ軍が勝つ。!!」

 カルタゴの名将・ハミルカルの後継者で天才・ハンニバルの演説を兵士達は大喊声でしめくくった。

従来は冬の間は戦わないのが慣わしであったが、ハンニバルは冬季であっても戦いを挑んだ。

 ローマ軍執政官・コルネリウスはこの時期に戦端を開く気は無かったが、友軍の到着までに
敵情視察ぐらいは済ませておこうと考えて、騎兵全員4千騎と少数の軽装歩兵だけを従えて西に向かった。

 まさにその時、ハンニバルも騎兵だけを連れて、地勢を調べる為の実地踏査に出ていたのである。
 
 両軍は一気に距離を縮めてたちまち戦闘開始。
ローマとカルタゴとの間に戦われた最初の戦いは騎兵戦だったのである。

 勝負はあっけなく着いた。
カルタゴの最強の騎兵集団・アフリカのヌミディア騎兵の前に、ローマ側騎兵集団・ガリア騎兵はたちまち血祭りに上げられて執政官の周囲まで手薄になってしまう。

 最強の軍事国家のローマ軍執政官・コルネリウスは傷を負い、敵の騎兵に囲まれた。
そのあわやの瞬間を間髪をいれずに執政官を救い出したのは、その日が初陣の若い騎士だった。

 重傷の執政官を守りながらローマの騎兵は一団となって敗走する。
執政官を救い出した若者こそ、執政官の息子17歳のコルネリアス・スキピオであった。

 颯爽と登場したこの若者こそ、これより16年後にローマ軍を率い、ザマの決戦でハンニバルと対決する不世出の英雄・大スキピオである。

★★★
大スキピオ

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨ
紀元前236年 - 紀元前183年)
 古代ローマの名門出身の軍人、元老院議員。「スキピオ・アフリカヌス」と称され、スキピオ・アエミリアヌスと区別して「大スキピオ」とも呼ばれる。

 第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破り戦争を終結させた。後に元老院改革に着手するグラックス兄弟の外祖父にあたる。
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# by kenji1942 | 2008-06-28 19:52 | ローマ帝国の興亡
        ハンニバル・・6・・・ローマ連合軍

 ハンニバルがアルプスを越えてイタリアに攻め入った時の軍勢は2万6千人。
対するローマ連合軍の戦闘可能員数は75万人とされていたが、ローマも同盟諸国も軍役は市民間の平等なもちまわりになるように配慮されていたので、75万人を同時に相手する事では無く、北から攻め入ったハンニバルが当面の敵とする戦力は5万人であったと思われる。

 ハンニバル軍・2万6千に対してローマ連合軍・5万人。
ハンニバル軍の2万6千人は歩兵2万、騎兵6千の精鋭である。
彼等はピレネー山脈を越え、フランス横断中に敵対してくるガリア人を撃退しづづけ、ローヌ河の渡河作戦でも生き残り、アルプス越えにも耐え抜いてきた精鋭で、二分の一の戦力だがハンニバル軍の内実は強豪であり、 まさにハンニバル軍勢は粒ぞろいの戦士達の集団と言える。

 カルタゴ軍の構成員はカルタゴ人・スペイン人・リビア人・ヌミディア人・ガリア人と他人種の混合体であったが、五ヶ月もの間、おなじ釜の飯を食い労苦をともにしてきた者同士であり連帯感も生まれていた。

 これに加えて指揮官は若くして古代戦史上に輝く天才戦略家・ハンニバルである。
ローマ連合軍のように、一年ごとに総司令官から兵士までが入れ代わる軍隊ではない。
また、ハンニバルはマケドニアのアレクサンダー大王の戦術を徹底的に学んで参考にしていたことが読み取れる。

 ハンニバルは、ローマ憎しの想いのあったガリア人達と同盟を結んだり懐柔に務めたので、アルプス越えを成功させてから一ヶ月もしない間に、ハンニバル軍の旗下に馳せ参ずるガリア兵は一万人を数え、ハンニバル軍の総勢は3万6千人となった。
しかも、当時のガリアはアフリカのヌミディア人と並んで騎兵の産地でもあったのである。

 その間、ローマ側も執政官・コルネリウスが予想もしなかった方角から攻め込んできた敵を迎え撃つ態勢を整えつつあった。

 コルネリウスだけが、ローマの指揮官達の中で、間接的であってもハンニバルの才能に瞠目したいた。
ローヌ河渡河作戦のやり方といい、誰もが不可能と思っていたアルプス越えを成功させたことといい、しかもこれらすべてを予想外の短期間で成功した手腕といい、コルネリウスはハンニバルをただの若造とはもはや思っていなかったのである。

 執政官・コルネリウスは初めてハンニバル軍と闘う部下達を鼓舞する。
「戦士諸君!今回の戦いは、われわれの国土イタリアを、叉我々一人一人の家族を守る為の闘いである。
諸君一人一り人の闘いぶりが、それらの運命をきめる。
神々が、このわれわれ全員を護られんことを!!」

 
 




 
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# by kenji1942 | 2008-06-25 15:59 | ローマ帝国の興亡
          ハンニバル・・・5・・・アルプス越え・・2

 これより2000年の後にアルプスを越えて、イタリアに攻め込む事になったフランスの英雄・ナポレオンの解釈では、アルプス越えを敢行したハンニバルが遭遇した真の困難は象の群れを越えさせることであったろうと言っている。
叉、これより160年後に、ユリウス・カエサルもハンニバルとは反対のイタリア側から大軍を率いてアルプスを越えている。

 いずれにしても当時のローマ人が、不可能であると信じていたのが必ずしも誤りではなかったと思うほど、象も加わった大軍のアルプス越えは難事業であった。

 ハンニバル軍団は4ヶ月をかけて、スペイン・カルタヘーナから進軍してきたが、アルプスを降りたところに広がる谷間の地で15日間の休息を取り、次の戦いに備えたのである。

 あらゆる困難をものともせず前人未到の偉業を行った29歳の若者は、アルプスを越えてフランスに入ってからも、数多くの部族に分かれているガリア人を、金で懐柔し、叉はやむを得ず武力でおし潰すやり方で踏破した。

 その後、兵士たちが疲れを癒している間にハンニバルがやった事は、この一帯のガリア人の懐柔である。
この時の懐柔は、彼と彼の軍勢を通過させてもらう為ではなく、ハンニバルの軍に加わってローマと闘う傭兵を集める為であった。

 国土防衛に傭兵を使う伝統のあるカルタゴでは、以前からガリア人の傭兵は少なくなかった。
当時のガリア人勢力は勃興する軍事大国のローマに、じりじりと押され後退を続ける状態にあったのである。

 それが今、まるで天から降ってきたかのようなハンニバル・カルタゴ人の到来である。
しかも強大なローマとともに闘おうと言っている。

 たちまちにして幾つかのガリア人部族がハンニバルと同盟を結んだ。
だが、イタリア内のガリア人も多くの部族に分かれていて、しばしば仲間うちで争っていた。
叉、他民族であるカルタゴ人への本能的な懐疑心も強かった。

 ガリア人を間近で観察したハンニバルは、彼らを自らの配下にするには、ローマ軍と戦って勝って見せるしかないと判断するに至る。

 イタリアに攻め入ったハンニバル軍勢は2万6000人であった。
それに対する軍事大国ローマは総勢75万人。ルビコン川からメッシーナ海峡に至る「ローマ連合」の動員可能戦力である。

 これが第二次ポエニー戦役である。

 
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# by kenji1942 | 2008-06-20 21:13 | ローマ帝国の興亡
        ハンニバル・・4・・・・・アルプス越え

 古代戦史上に輝く英雄・ハンニバルは、同時代人に比べて圧倒的に情報の重要性に着目していた。

 日本の戦国時代を制した信長・秀吉・家康も情報戦の勝者であり、その有利さは古今東西同じであると言える。

 古代ローマの防衛線は、紀元前・218年の時点では、東・西・南とも鉄壁であった。
しかし、唯一残った北からの侵攻路も、広大なフランスの横断とアルプス山脈越えという難事が待ち構えている。
叉、あの辺一帯の原住民であるガリア人は、戦闘で敗れたから一応はローマと講和を結んで傘下に入っているものの、ローマ人の友でもなかったが、ガルタゴ人の友でもなかった。

 ハンニバルは、この北イタリアにローマの防衛線突破の可能性を見たのである。
アルプス越えも、イタリア側に住むガリア人やフランス側に住むガリア人が、家畜などを連れてアルプスを越えて往来していたのを知っていたので、難事であり犠牲も大きいであろうが不可能事ではないと言う情報を知っていた。
世界を驚かせたアルプス越えの冒険も、ハンニバルの冷徹な計算の上に立って実行された冒険であったのである。

 ハンニバルが本拠地である、スペインのカルタヘーナを後にしたカルタゴ遠征軍の軍勢は、歩兵9万に騎兵1万二千、それに象が37頭であった。

 しかし、29歳の若き英雄ハンニバルは、この全員をイタリアまで連れていけるとは思っていなかった。
敵地でのガリア人たちとの戦闘もあるだろうし、兵糧確保の困難も予想される。
遠い地に連れて行かれそうな気配に動揺しはじめたスペイン兵には気前良く帰宅を許可し本拠地カルタヘーナの防衛に廻した。

 ハンニバルがアルプス越えに要した日数は、登りと下りを合わせて十五日であった。
人や馬ならば通れても荷車や象の通過が困難な場所では、崖の岩まで切り崩して道を広げたことさえあったし、、ガリア人の襲撃も撃退した。

 登りの時も困窮を極めたが下りもある者は寒さと疲労に耐え切れずに道端から動かなくなり、叉ある者は足を踏み外して谷底に消え、何頭の象も兵士とおなじ運命を辿った。

 かくして、エブロ河とピレネー山脈を越えてフランス側に入った時のハンニバル軍勢は、二万の歩兵と六千の騎兵の計二万六千であった。
 
 ローヌ河を渡った時点では歩兵騎兵合わせて四万六千居たのだから、アルプス越えで払った犠牲は歩兵騎兵ともで二万にものぼった。
ピレネー山脈を越えた時点で比較すれば、後に残したきた屍は三万三千人になった。

 冬のアルプス越えは前人未到の偉業であるが、払った犠牲も凄まじい規模であった。
紀元前・218年の時点で、ローマの防衛線は東・西・南とも鉄壁であったので、ローマ人の本拠地・イタリアを戦場とするには、たとえ犠牲が大きかろうと、アルプスを越えて攻め入るしか無かったのである。

 つまり、ハンニバルの宿願であるローマ撃滅の為には、この道しかなく、北イタリアから攻め入るしか選択肢はなかったのである。

かくして、 ハンニバル軍団がカルタゴ・スペインの本拠地カルタヘーナを後にしてからイタリアに入るまでに、四ヶ月を要したのであった。
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# by kenji1942 | 2008-06-14 15:37 | ローマ帝国の興亡
       ハンニバル・・・3・・・第二次ポエニー戦役

 紀元前・218年の5月、打倒ローマを目指して29歳のハンニバルは、準備した全軍を率いてスペインのカルタゴ領・カルタヘーナを出発する。

 有名な史実である象をつれた大軍でスペインからフランスを越え、ついでアルプス越えを敢行し、当時の世界最高の軍事大国・ローマを17年間にわたって散々苦しめたのである。

 世に言うところの第二次ポエニー戦役・叉の名をハンニバル戦争である。 

 これ以後のハンニバルの行動を相当程度に追う事が出来るのは、彼がアレクサンダー大王を見習ったのか記録者を同行したからである。

 ハンニバルのギリシャ語の教師でシレヌスと言うギリシャ人だった。一方、ローマ側にも記録者がいた。ハンニバルとは完全な同時代人で、元老院議員を務めていたファビウス・ビクトルである。

 ハンニバルが本拠地である、スペインのカルタヘーナを後にしたカルタゴ遠征軍の軍勢は、歩兵9万に騎兵1万二千、それに象が37頭であった。
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# by kenji1942 | 2008-06-13 15:58 | ローマ帝国の興亡
       ハンニバル・・2・・・ローマの攻略

 紀元前・221年カルタゴ支配のスペインで総督・ハシュドウルバルが殺され、英雄・ハンニバルが後継総督となった。

 全権を握ったハンニバルは、その翌年・紀元前220年の一年間を、スペイン・エブロ河以南の完全制覇に費やす。

 スペインの原住民は未開発民族だったが、それだけにガリア人に負けず劣らずの勇猛さであり、スペイン制覇には完成と言うものがなかったのである。

 紀元前・219年、28歳になったハンニバルは、年来の想いをいよいよ実行に移し始める。
つまり、亡き父・ハミルカルとの約束であるところのローマ攻略である。

古代最高の戦術家ということではローマ人さえも認めるハンニバルは、ローマを陥落させるのには、カルタゴ本国から攻め入るのではなく、遠くスペインからローマを落そうと考えたのである。

 
★★★
 ハンニバル(BC247~BC183)    
   
 カルタゴの名将ハンニバルは、稀代の戦術家・戦略家であった事は間違いない。
ハンニバルが軍隊に推されて最高指揮官の地位に着いたのは、若干まだ26歳の若さであった。

 いつの世にあっても、指揮官の頭脳だけでは兵士は動かない。
まして、カルタゴの軍隊の大半は外人部隊、つまり金でやとわれた異民族からなる傭兵部隊との混成部隊だった。

 そうした大集団をどのようにして統率したのだろう。
「威令・それを徹底させる信頼、それを集めるだけの行動力と人柄、それらがかね備わっていないかぎり不可能である。

 ローマの史家・リビウスは、このように評している。
「危険に際してハンニバルが示した計り知れない勇気、と同時に、この上ない判断力、どんな困難も彼の体力を損なったり、気力を挫くような事は無かったし、暑さに対しても寒さに対しても同じように平気だった。

 食べたり飲んだりすることも、あくまで生理的欲求に従うだけで、快楽の為ではなかった。
おきるのも寝るのも夜昼関係なく、仕事が済めば睡眠をとる、それだけの話だった。

 眠るといっても、柔らかいベッドだの静けさを求めるわけではない。
一般の兵隊と同じ外套にくるまって、衛兵や歩哨とともに地上に横になるだけであり、服装も普通の兵士と変わる所も無かった。

 ただ武具と馬だけが目立つくらいだった。
騎兵・歩兵部隊のなかにあって、彼は紛れも無く第一人者であった。
戦闘になると、真っ先に進み、戦場をあとにするときは、常に最後だった。」

 やはり、当時の世界で並ぶべき国が無かった超軍事大国・ローマを敵に回して、17年間も戦った英雄だけのことはある。

 アレキサンダー、ナポレオンにも匹敵する率先垂範の鑑でありハンニバルは英雄といえる。
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# by kenji1942 | 2008-06-11 16:53 | ローマ帝国の興亡
      ハンニバル・・・1・・・・・・・・総督に就任

 未だローマが北辺の防御体制を確立出来ていなかった紀元前・221年に、カルタゴ支配下のスペインでは、総督・ハシュドウルバルが暗殺された。
従僕に使っていたガリア人が、侮辱されたのをうらんで殺したのだと言う。

 勇将・ハミルカル・バルカの後継として女婿・ハシュウドウルバルがスペインを統治していたが、バルカ家の婿である彼は、直系のハンニバル・バルカが成長するまでの引き継ぎ役でもあった。

 父・ハミルカルの死んだ年は18歳でしかなかったハンニバルだが、総督・ハシュドウルバルが暗殺された時には26歳になっていた。

 本国・カルタゴの政府も、スペインのカルタゴ人も一致してハンニバルの総督就任を認め、ここに稀代の軍略・戦術家である英雄・ハンニバルが颯爽と登場することとなる。

★★★
ハンニバル(BC247~BC183)

 ローマとカルタゴとの間で戦われたところの、ハンニバル戦争と呼ばれた第二次ポエニ戦争は足掛け17年も続いた。

 第一次ポエニ戦争の24年に較べれば短いといえるが、ハンニバルはこの長い年月を一人で支えたのである。
まさに超人であるといえる。
 
 しかも、相手は世界に名だたる軍事大国のローマである。
そのローマのフランチャイズであるイタリア半島に15年間も陣取って、ローマ元老院を顔色なからしめたハンニバルと言う将軍は、将に偉大な名将といえる。 "
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# by kenji1942 | 2008-06-09 20:56 | ローマ帝国の興亡
第一次ポエニー戦役の後・・7・・・・・ローマ軍団

 第一次ポエニー戦役と第二次ポエニー戦役の間の23年間に、ローマ人は、シチリアの属州統治や、イリリアの海賊退治、ガリア人相手の戦闘ばかりして過ごしたのではない。

 紀元前241年・「第一次ポエニー戦役終了直後」には、紀元前六世紀半ばの王政時代に、六代目王・セルヴィスによって成された「税制・選挙制・軍政」を三百年ぶりに改革した。

  ローマ軍団を構成する市民兵も、市民権所有者のより広範囲な層によって構成されるようになった。
これは、軍団の指揮官達に貴族・平民の差別が全く存在しなかったことと並んで、ローマと言う国家の挙国一致体制の強化に有効に働く事になるのである。

 ローマ軍の現役は17歳から45歳まで、46歳から60歳までは予備役となる。但し将官クラスになれば年齢制限はなかった。
それでも60歳を過ぎれば、他に代えがたいと思われた人物でもなければ、退役になるのが普通だった。

 ローマ軍団の主力は、ローマ市民の上流と中流の階級出身者で占められる重装歩兵である。

 総司令官の参謀を務めたり中隊の指揮を任される将官クラスは市民集会の投票で選ばれる。
それゆえに名門の子弟や有名な武将が選ばれやすいのであるが、「百人隊長」だけは、彼が属する小隊の隊員間の投票で選ばれるのである。

 ローマ軍団の「百人隊長」は、単なる下士官ではなかった。
それどころかローマ軍団の背骨と思われていたのは、上級指揮官である将官ではなく、下級指揮官の百人隊長であったのだ。

 兵士達の最大の名誉とされていたのは「百人隊長」に選出されることであった。
鉄杯も黄金の鎖も、その人の勲章となったが、「百人隊長」になることの方が最大の勲章であった。

 彼らこそが、ローマ軍団の先頭に立ち、兵士達を率いて闘う責任者だった。
最高司令官の武将としての能力は、百人隊長をどれだけ駆使できるかで決まったと言う。
 
 天才・カエサルを頂点とするローマの名将たちは、いずれも、百人隊長の心を完全に手中にし、彼らを手足のごとく使いこなせた男たちであった。

 ローマ軍では、軍規も賞罰も隅々に至るまで細かく定められていた。
これは指揮官が毎年の選挙で代わるし、兵も代わる状態なので誰がやってもおなじ結果を生むために公正を期したからである。
 
 叉、ローマ軍の軍規の厳しさは毎夜、律儀に「宿営地」を築くこともあったが、夜間の歩哨勤務中に眠りこけたりして任務を怠った兵士には、事実上の死刑が待っていた。
両側に並んだ全員が棒で殴りつけるので、生きながらえることはほとんど無かった
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# by kenji1942 | 2008-06-06 14:31 | ローマ帝国の興亡
第一次ポエニー戦役の後・・6・・・・・ローマの現状

 紀元前226年、ローマに破れシチリアから撤退したカルタゴは、ハミルカルの活躍でスペインに一大植民地を経営していた。

 ローマは第一次ポニー戦争に勝利した後の23年間、つまり第二次ポエニー戦争に至るまでをいかに過ごしていたのだろうか。

 ローマはスペインで大活躍したハミルカルの後継者・ハシゥドゥバルと協定を結び、スペインの北部を西から東に流れるエブロ河以北にカルタゴの勢力圏を広げないようにした。

 エブロ河はピレネー山脈のすぐ南を流れているのだから、ローマは実質的にスペインのほぼ全土のカルタゴ支配を認めたことと同義語である。
 異民族統治は誰にとっても難しいものである。
ローマ・元老院はカルタゴと戦って獲得したシチリアの統治を如何にするかに頭を悩ましていた。

 ギリシャの植民地を起源とする都市の多いシチリアはギリシャ語圏に属していた。
ギリシャのアテナが健在であった時代からギリシャ文化の一大根拠地であったシチリア内・シラクサの文化水準は一流であった。

 そのシラクサがローマの勝利によって友邦国となったのである。
ローマの良家の子弟たちはこぞってギリシャ語習得の為に南をめざした。

 当時ではラテン語よりもギリシャ語のほうが言語としての完成度が高く、且つギリシャ語の使用圏は地中海世界全域に及んでいたのである。

 「ギリシャ熱」はたかまり、ローマ人は被征服民を家庭教師に招じ秘書に雇い、被征服地に子弟を留学に送り出したのである。

 叉、その一方軍隊の敏速な移動の為の道路の整備、つまりローマ人の「インフラ整備熱」
は充分に機能しシチリア島、サルデーニャ、コルシカ島に及んだのはいうまでもない。

★★★
シチリア島

 紀元前8世紀、ギリシャによる植民が開始された。
紀元前734年頃、シケリア最大の植民市となったシュラクサイ(現在のシラクサ)の他、ゲラ、アクラガス、セリヌス、ヒメラ、メッシーナ、レオンティノイなどの植民都市が建設された。

 ギリシャの学者として有名なエンペドクレスやアルキメデスはこの島の出身である。

 その後、ヘレニズム期において、ギリシャはカルタゴと戦争状態に入った。
カルタゴは、シチリア島の南西のそれほど遠くないアフリカ本土にあり、シチリア島に植民都市もあった。

 第一次シチリア戦争と第二次シチリア戦争において、カルタゴはシチリア島からギリシャを駆逐しようとし、両軍が多大な犠牲を払った。
第三次シチリア戦争で、カルタゴはシラクサとメッシーナが支配する島の東部を除いた他の領域を支配下においた。

 紀元前256年、シラクサに侵攻されたメッシーナは、ローマに救援を求め、これがローマとカルタゴによる第一次ポエニ戦争の発端となった。
戦争の終結する紀元前242年には、シチリア島全域がローマによって占領された。

 第二次ポエニ戦争でのカルタゴの初戦の快進撃によって、シチリア島の諸都市はローマに反乱を起こし始めたが、ローマは軍団を派遣し、これを鎮圧し、(シラクサの包囲戦の最中にアルキメデスが殺害された)最終的にカルタゴはシチリア島から追い払われた。

 紀元前210年にローマの執政官M・ウァレリウスが元老院に向かって述べた「一人のカルタゴ人もシチリア島に生かしてはならない」という言葉通りに、シチリア島のカルタゴ寄りの人々が多く殺された。

 このあと、6世紀の間、シチリア島はローマ帝国の属州であった。僻地の田舎のような扱われ方だったが、シチリア島の農作物はローマ市にとって重要な食料供給源であった

 強いてローマ化しようとはしなかったので、島はギリシャ時代の様子を多く残していた。
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# by kenji1942 | 2008-06-04 11:50 | ローマ帝国の興亡
  第一次ポエニー戦役の後・・5・・・・・ハミルカル・大活躍

 ジブラルタル海峡(かっては、ヘラクレスの二本の柱と呼ばれていた)を渡ってペインに移り住んだハミルカルは、その地で見事な組織力を発揮する。

 ハミルカルは彼についてきたカルタゴ兵を主体にして、戦いで破ったスペインの原住民を傭兵に加えスペインのカルタゴ軍を構成する。

 名将・ハミルカルの戦術の妙もあって原住民相手の戦いでは負けを知らない連戦連勝であった。

 支配地域は急速に拡大され、それをカルタゴ人特有の経営力によって、高い生産性を誇る農園に変貌する。

 叉、スペインには多い鉱脈も豊かな鉱山に生まれ変わった。
特に銀鉱の開発は、ハミルカルの植民地経営の成功を決定的にする。

 50年後にスペインをを訪れたローマ人のカトーがその生産性の高さに驚嘆したと言う高い収益がスペインでのハミルカルの財源であった。

 スペインでのカルタゴ支配圏は、ハミルカルが移住してきてから9年の後には、スペインの東南部を網羅されるまでに拡大される。

 そこから上がる利益は自活の範囲をはるかに越え、本国に送金し、本国カルタゴの農園経営に投資するまでになっていた。

 カルタゴは、シチリアを失ったのに見合う以上の植民地を獲得したのである。

ハミルカルのスペイン移住10年目にあたる紀元前228年には、スペイン東崖に「新・カルタゴ」と名付けられた都市の建設も終る。
 
 まさに王宮のような居城を建設したが、それはバルカ一門によるスペイン支配の本拠であった。

 カルタゴから独立したかの如くであり、スペインの各地からの産物はすべてこの地に集まるようになっていた。

 ハミルトン自身は、新都市の完成の一年前に戦死している。
後を継いだのは長年ハミルトンの副官を務めた彼の女婿・ハシュドゥバルであった。

 直系の後継者である英雄・ハンニバルはいまだ18歳の若者である。

★★★
 ハミルカル・バルカ(ラテン語 ? - 前229/228年)
カルタゴの将軍で、ハンニバル・バルカの父。「バルカ」はフェニキア語バラク baraq 「電光」に由来し、ヘブライ語のそれと全く同じ意味である。

 彼の戦歴はシチリア島から始まる。当時、シチリア島は第一次ポエニ戦争が勃発した発端となった場所ではあった。
攻撃を仕掛けてくるローマ軍に対してはすべて撃退するなどハミルカルの軍は無敗であったが、本国海軍の敗北を機に紀元前241年に和議が成立すると、降伏の意志もないままにカルタゴへと戻った。

 第一次ポエニ戦争は、彼の活躍にも関わらず、カルタゴの敗北に終わった。カルタゴの軍は基本的に傭兵で成り立っており、ハミルカルの軍はハミルカル個人の素質によって率いられたものであった。

 しかしハミルカルにより約束されていた報酬は、大ハンノを中心とするカルタゴ政府内の反ハミルカル勢力により反故にされ、傭兵たちは反乱を起こしてしまう。
危機感を募らせたカルタゴ政府はハミルカルに反乱の鎮圧を要請、紀元前237年ハミルカルは傭兵の反乱を鎮圧に成功する。

 これによりハミルカルのアフリカでの名声と影響力を世に知らしめる。
反乱鎮圧の後、ハミルカルの影響は強まり、彼の政敵は日増しに力を増す彼に抗する事ができなかった。

 この名声を背景に彼は自分の軍隊を募る。
軍にはヌミディアなどの各地からの傭兵を集めて訓練を施し、ヒスパニアへ出征してカルタゴ政府からの干渉を受けない自らの王国を築く事を決意する。新天地の開拓により、シチリア島を失ったカルタゴを支援できうると考えての行動であった。

 また遠征には息子ハンニバルも随行した。幼き日の息子ハンニバルを神殿に連れて行き、打倒ローマを誓わせた逸話は非常に有名。

 8年間の遠征を経てヒスパニアでの支配を確立しようとしつつあり、拠点としてカルタゴ・ノウァを建設中であったが、彼はその完成を見ぬまま戦死した。彼の遺志は娘婿のハスドルバルに継がれた。・・・ウキペディア


★★★
カトー

 平民の家系の出だが、ルキウス・ウァレリウス・フラックスによりローマに連れて行かれ、その後援によりクァエストル(紀元前204年)、アエディリス(紀元前199年)、プラエトル(紀元前198年)、コンスル(紀元前195年)を歴任した。

 第二次ポエニ戦争後のカルタゴの処遇について、ローマは同盟国として扱う事を選んだが、大カトーは元老院で演説を行うときに常に(全く関係無い話題であっても)「ともあれ、私はカルタゴは滅ぼされるべきであると思う」と末尾に付け加えた。

  また、カルタゴ産の見事なイチジクの実を見せて「これほど見事なイチジクを産する国が3日の距離にいる」と言ってカルタゴを滅ぼす必要性を説いた。

 (イチジクは日持ちがせず乾燥させて食べるのが一般的であり、カルタゴから運ばれたイチジクが生食できるほど新鮮である事で、カルタゴの脅威が身近にある事をアピールしたのである)。・・・ウキペディア
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# by kenji1942 | 2008-05-30 11:51 | ローマ帝国の興亡
   第一次ポエニー戦役の後・・4・・・・・ハミルカル・スペインへ

 敗戦によりシチリアから撤退したカルタゴの傭兵達は、給料の支払いで不満を持ち5万人に及ぶ大反乱軍を起こす。

 紀元前240年・カルタゴ政府は武力による鎮圧を決意し、一万の兵を組織しハミルカルに総指揮を委ねる。
名将・ハミルカルのもと、彼に私淑していたヌミディア人の騎兵二千も鎮圧軍に参加する。

 傭兵を中心とする大反乱軍は、数では優勢であったが指揮官がいない。
名将・ハミルカルに戦術を駆使されては敵ではなかった。

 しかし、圧倒的な数的優勢の反乱軍には手を焼き、戦いは3年と4ヶ月にも及んだ。
名将・ハミルカルは最後に戦術を駆使して、叛乱軍を山に追い上げる事に成功し、大量の象・部隊を持って反乱軍の殲滅に成功する。

 この3年余にも及ぶカルタゴ本国の混乱の間に、サルデーニヤ島がローマ軍の傘下に入った。そして、その北に位置するコルシカ島も自動的にローマのものとなる。

 こうしてローマは、シチリア、サルデーニヤ・コルシカを支配下に収めた事により、イタリアの南・西と制海権を確実にした事になる。

 そしてこのことは、西地中海の制海権が、ますますカルタゴの手から離れ、ローマのものになっていくことを意味する。

 叛乱を鎮圧して危機を脱したものの、カルタゴ本国では国内重視派と対外進出派との抗争を終らせる事は出来なかった。

 対外進出派の統領格であった名将・ハミルカルは、国内重視派が優勢なカルタゴ本国を去ってスペインに本拠を築く事を決断する。
 
 当時のスペインにはすでにカルタゴの植民地があったが、あまり大きくは無かった。
このスペイン移住にハミルカルは、9歳になっていた長男のハンニバルを同行したのである。

★★★
ハンニバル(BC247~BC183)

ローマとカルタゴとの間で戦われたところの、ハンニバル戦争と呼ばれた第二次ポエニ戦争は足掛け17年も続いた。

 第一次ポエニ戦争の24年に較べれば短いといえるが、ハンニバルはこの長い年月を一人で支えたのである。
まさに超人であるといえる。
 
 しかも、相手は世界に名だたる軍事大国のローマである。
そのローマのフランチャイズであるイタリア半島に15年間も陣取って、ローマ元老院を顔色なからしめたハンニバルと言う将軍は、将に偉大な名将といえる。 "
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# by kenji1942 | 2008-05-28 09:08 | ローマ帝国の興亡
  第一次ポエニー戦役の後・・・3・・・・・傭兵の叛乱

 カルタゴは戦って敗れた。
戦勝国のローマは戦いの神ヤヌスの神殿の扉を閉じて平和を満喫する。

 敗れたカルタゴの傭兵達は、戦場であったシチリアから大挙して引き上げてきた。
戦争が終ったのだから、用済みとなった傭兵達はそれぞれの生国であるガリア・スペイン・ギリシャ・アフリカなどに帰国しなければならない。

 傭兵達は帰国する前にカルタゴ政府が傭兵料を払ってくれるのを待っていた。
しかし、敗戦で財政緊縮の必要をより強く感じたのか、彼らの要求する傭兵料の支払いに応じなかった。

 戦いは夏前に終り、戦闘期間とされている春から秋までの半分しか働かなかったから、傭兵料も半分でよいと言うのがカルタゴ人の考えかたであった。

 勿論、命がけで闘った傭兵達は納得せず、しかも、彼等は武装していた。
傭兵達は出国まで留めおかれていたシッカの町を出て首都カルタゴに向かう。 二万の武装兵に首都カルタゴまで二十キロに迫られた政府はやむなく交渉に応じることを承諾する。

 はじめは妥当な要求を掲げていた傭兵達であったが、交渉にあたったカルタゴ政府高官の態度に腹を立て、条件を吊り上げてきた。

 カルタゴ政府の戦後対策に不満であった傭兵達の出身地の一つであったりビアが彼らに同調する動きを示してくる。

 カルタゴ本国では常日頃から、支配者カルタゴ人への叛乱の危険が常につきまとっていた。
首都カルタゴに次ぐ第二の都市ウティカまでが不満組に傾斜する頃には、武装兵は二万人から五万人に増加していたのである。

ポエニー戦役終了の翌年である紀元前240年、カルタゴ政府はもはや、彼らを反乱軍と断じ、武力による鎮圧を決意する。

 総指揮はハンニバルの父・ハミルカルに委ねられたのである。

★★★
紀元前5世紀頃から次第に勢力を強めていくカルタゴは、シチリアを巡ってギリシアと争う。
ギリシアもカルタゴと同様に地中海沿岸の植民活動を活発に行っており、その勢力に対抗するためカルタゴも頻繁に軍を派遣しなければならなかった。 かくして、カルタゴはただの交易都市から西地中海交易の保護者へと変貌を遂げていく。

 そのころカルタゴはマゴ家と呼ばれる一族が国政を支配していた。
マゴ家は王ではなく有力な貴族かつ将軍で、彼ら一族は150年間ほどのあいだ第一人者の地位を保った。

 マゴ家の指導により、カルタゴの軍は傭兵制を導入する。
カルタゴの人口は最大でも70万人といわれ、大きな軍隊を支えるにはあまりに人数が少無すぎたので、傭兵制度が必要になったのである。

 マゴ家は艦隊の整備にも力を注ぎ、地中海最大のガレー艦隊を有するカルタゴ艦隊は、周囲の国から大変恐れらた。
またカルタゴは船の建造技術にも優れ、5階層のガレー船を運用していたといわれている。

 カルタゴの転機となる第一次ポエニ戦争は紀元前265年に勃発する。
当時栄華を極めていたカルタゴと新興のローマが、シチリアを巡って争う。

ところが、ローマが開発した「カラス」と呼ばれる新兵器によってカルタゴ海軍は敗北を喫してしまう。

 カラスはスパイクの付いた長い板を敵艦に振り下ろして、重装歩兵を敵の甲板に乗り込ませるための即席の渡し橋になる。
海戦では玄人のカルタゴ水兵も白兵戦になるとローマの重装歩兵にはかなわない。

 カルタゴはその後の数回の海戦も全て敗れ、シチリアはローマ領となり、シチリアを奪われ、地中海のカルタゴ勢力は大きな痛手を負い、第一次ポエニー戦役は、カルタゴの敗退となるのである。

 
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# by kenji1942 | 2008-05-26 22:59 | ローマ帝国の興亡
        第一次ポエニー戦役の後・・・2・・・講和

カルタゴの悲劇はシチリア島で始まった。

 フェニキア人が北アフリカの一角、現在のチュニジアの地に、
「カルト・ハダシュト(新しい町)」を築き、その町は「カルタゴ」と呼ばれた。

 カルタゴは精力的な経済活動によって、
地中海沿岸の各地に早くもいくつかの重要な交易基地を手にしていた。
なかでもカルタゴが重要視したのは、シチリア島であった。

 シチリア島の位置づけとして、北アフリカのカルタゴか、イタリア半島よりのギリシャ・
ローマの、そのどちらかに身をゆだねるかで、地中海の覇権はきまる。

 カルタゴの誕生の始まりから、ギリシャと後に勃興する軍事大国・ローマとの激突は歴史の必然であった。

 カルタゴは富国を望み、ローマは強兵をめざす
当初ローマはイタリア半島だけに気を取られていたが、しだいに外の世界に眼を向けたとき、
強兵の為には富国が不可欠の条件である事に気がつく。

そこで、シチリア島をめぐっての、カルタゴとローマによる宿命の戦いがはじまるのである。
世に言う・・「ポエニ戦争」である。 "

 紀元前241年にローマ・カルタゴの間で講和が結ばれた
第一次ポエニー戦役は23年間の長きにわたる熾烈な戦いの後、ローマ軍の勝利に終る。

 この戦いの結果で、ローマが戦勝国となったが、カルタゴがその傘下に入ったわけでもない。
カルタゴは「ローマ連合」に入るわけでもなく、ローマの友邦国でもなかったのである。

 カルタゴは戦争をして、敗れた。 
ゆえに、400年間にわたる長期間シチリアに持っていた領土をは放棄し、賠償金も支払ったが、独立した自治国家であることは少しも変わっていないのである。

 カルタゴはアフリカの農園経営などの利潤で、イタリアやシチリアに手を出さなくても、充分に生きて行けた。

 第一次ポエニー戦役後のカルタゴ人は、再度のローマとの戦争を願ってもいなかったし、予想もしていなかったのが大半であった。

 のちにカルタゴに現れる、戦いの英雄・ハンニバルの父、ハミルカルは23年間にわたる第一次ポエニ戦役の最後の6年を、彼自身は敢闘したのにカルタゴ海軍が海戦に敗れた事で、講和の交渉役を務めねばならなかった。

 戦役終了時には、ハミルカルはまだ40歳にも達していなかった。
ハミルカルの属するバルカ一門は、ハンノン一門の農業経済派と違って、通商を富の源泉とする人々のリーダー格である。

 シチリアを放棄したことが西地中海の海まで放棄することになるのに、より敏感であったのも当然だった。

 ハミルカルと彼に同調するカルタゴ人だけが、いつの日かローマと、再び剣を交えることを願っていたのである。

 かくしてポエニー戦役が再び勃発する。
世に言う「第二次ポエニー戦役・ハンニバル戦争」である。

 ★★★

 名将 ハンニバルのアルプス越え          
 フェニキア人はカナンの地から北アフリカに渡り、現在のチュニジアの首都チュニスの地に新しい町を作った。
そこで、その町はカルト・ハダシュト(新しい町)と呼ばれ、ローマ人はここに定着した人たちをカルタゴ人と称したのである。

カルタゴとローマの間で、三度にわたって繰り返された戦いを「ポエニ戦争」という。
「ポエニ戦争」とは「フェニキア戦争」と同義である。

ポエニ戦争といえば、何より有名なのがハンニバルである。
ローマと24年戦って、ついに敗れたカルタゴは、やがて戦後の混乱を乗り切って、再びローマと対決する。

 その立役者がハンニバルであり、彼の総指揮のもとに17年間戦われた「第二次ポエニ戦争」は別に「ハンニバル戦争」とも言われた。

 ハンニバルは稀代の戦略家であり,戦術家であり、政治家であり、学識にも優れ、人間的にも大変魅力ある人物だったのである

 ハンニバルをして、人々の胸に長く記憶させたのは、通常ではとても考えられないような、
はなれワザを彼がやってのけたからである。
それは何万という軍隊とともに、象の群れを率いて冬のピレネー山脈を越え、スペインからイタリアへ進軍した事である。 "
 


 
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# by kenji1942 | 2008-05-20 15:51 | ローマ帝国の興亡
           第一次ポエニー戦役の後・・・1

 紀元前264年からはじまって23年間も続いた第一次ポエニー戦役は前241年をもって終った。

 ローマの名将・カトゥルスと、カルタゴの勇将・ハミルカルの間で同意が成った講和の内容は、
①カルタゴは、シチリア全島から撤退し、シチリアへの領有権を永久に放棄する。
②カルタゴは、シラクサも含めたローマの同盟国に対し、戦いを仕掛けないと約束する。
③両国とも、捕虜は身代金なしで釈放する。
④カルタゴはローマに、賠償金として、2200タレントを、10年間の年賦で支払う。
⑤カルタゴの自治権と独立の権利を、ローマは尊重する。
⑥エガディ諸島、マルタ、バンチレリアなどのシチリア周辺の島々もローマ領とする。

 カルタゴはアフリカの農園経営だけで、年に12000タレントの収益があり、島々のローマ領有は、既成事実の追認であった。
つまり、 ローマは、相手が受け入れやすい条件での講和を結んだのである。

 ローマでは、カトゥルスが、四頭の白馬を駆って凱旋式を挙行した。
そのおなじ頃、シチリアからのカルタゴ勢の総引き揚げが始まっていた。
カルタゴから送り込まれていた傭兵たちに続いて、シチリアでの植民地経営に携わってきたカルタゴ人も島を去らねばならない。
カルタゴの名将・ハミルカルの指揮が良く難民騒ぎなどの混乱は無かった。
シチリアの住民の大半を占めるギリシャ人にとっては、カルタゴの撤退は、それまでのカルタゴの支配からローマの支配に変わるだけなのであった。

 これでカルタゴは、400年の間築きあげてきた、シチリアの権益をすべて失った。
それは地中海の半分を失うと言うことと同義語であったのである。

★★★
共和制ローマの偉大な点

 「君主論」のマキャヴェッリが最大の賞賛を与えている点であるが、共和制ローマでは、軍の総司令官である執政官に対して、一旦任務を与えて送り出した後は、元老院でさえも何一つ指令を与えないし、作戦上の口出しもしないのが決まりだった。

 任地での戦略も作戦の立案も、完全に執政官に一任されていた。
敗北の責任を問わないのも、心置きなく任務に専念してもらう為であった。当時の大国・カルタゴの将軍は敗北の責任を取らされて第一次ポエニー戦役の間に三人の将軍が死刑にされているのと対照的だった。

 叉講和を申し出るのも受けるのも、講和の条件を提示する事から、その交渉まで執政官に一任されていたのである。

 講和の交渉中は、休戦期間とされていた。
国の最高決定機関である「市民集会」が問われるのは、執政官がまとめ上げた講和に賛成か否かを表示するだけであった。

 市民集会の投票で承認されて始めて講和が発行することとなるのである。
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# by kenji1942 | 2008-05-19 15:14 | ローマ帝国の興亡
     第一次ポエニー戦役 (紀元前264年 - 紀元前241年)  

 ローマの大敵・カルタゴの政局は「国内重視派」と「対外進出派」とに分裂していた。
「国内重視派」は、北アフリカ一帯に支配圏を広げることに積極的であり、国外へのカルタゴの勢力拡大には消極的であった。

 「対外進出派」は、国外への進出を目指し、シチリア制覇にも執着を持っていた。
戦局において、カルタゴが好機に際して、しばしば消極的になるのは、国内の政局が「進出派」の足を「国内派」がひっぱるからであった。

 戦史上において最大の戦略家とうたわれる、ハンニバルや、その父・ハミルカルの属するバルカ一門は「進出派」のリーダーと目されていた。

 紀元前241年3月、国内派を黙らせることに成功したのか、カルタゴは本格的な艦隊を送り出した。
3月早々の出動は、ローマ軍交替期の為の手薄時期を狙って、シチリアのカルタゴ軍が半年は持ちこたえられるのに充分な兵糧を満載しての補給戦を狙ったからである。

 迎え撃つローマ軍の利点は、兵糧を満載して重いカルタゴ船に比べて身軽なことであった。
あちこちで、船どうしが激突する音が響き、激突でかみ合った舟から敵船に乗り移って闘う兵士達のあげる喊声があたりを圧した。

 激戦だったが、勝負は短時間のうちについた。
カルタゴ側は、五十隻以上を沈没で失い、七十隻以上の舟を捕獲されて失い、残りは向きが変わった風に助けられ本国まで逃げ帰る事が出来た。

 勝ったローマ艦隊も、追撃できる状態には無く、ほとんどの舟は修理が必要だった。
逃げ戻ったカルタゴの総司令官は敗北の責任を取らされ極刑となり磔の刑に処せられた。

 カルタゴ政府は、ハンニバルの父・ハミルカルに急使を送り、ローマとの講和の交渉役を命じた。
ローマ執政官・カトゥルスも応じた。
現状に幻想を抱かない二人の名将の間で、ここに第一次ポエニ戦役の終りを迎える事となったのである。

★★★
通商国家・カルタゴ
                富の毒
富とは・・・・
バラの花のようなものである。
誰にとっても、富は好ましく、望ましいものであるが、
そこにはきまってトゲが隠されている。

トゲとは周囲からの羨望である。嫉妬である。
そしてねたみはついに敵意をかもしだす。

まさに欲望は憎悪の母であるからである。

それだけではない。
富はその所有者自身にも、わざわいをもたらさずにはいない。
そのわざわいとは、自分自身のおごりとたかぶりである。

「エゼキエル書」にいわく。
「お前は取引が盛んになるとお前の中に不法が満ち罪を犯すようになtった。
・・・お前は栄華ゆえに知恵を堕落させた。
・・・お前の心は富のゆえに高慢になった。」・・と。

このことは、まさに「富の毒」と言える。
この禍をまぬがれた富者は殆ど居ないといっても過言ではない。

だから「平家物語」の作者はこう断じている。
「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」

洋の東西を問わず、歴史が指し示す。
それも2000数百年前から、人類は同じことを繰り返しているようである。

そして、経済大国「カルタゴ」はローマ帝国に跡形も無く粉砕されていくのであった。
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# by kenji1942 | 2008-05-14 23:09 | ローマ帝国の興亡
              カルタゴはフェニキア民族

カルタゴ(羅:Karthago、英:Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖(en:Lake of Tunis)東岸にあった古代都市であり、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっている。

「カルタゴ」は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart-Hadasht=「新しい町」)に由来し、カルタゴ語では母音を抜いてQrthdstと綴る。アラビア語表記は قرطاج 

 カルタゴの経済人が国政も担当していたと言う点では、中世・ルネッサンス時代のヴェネツィアと似ているが、決定的な違いは海の上に建設されたヴェネツィアには耕地などは全く無かった。

 ヴェネツィアは、海外との交易と国内の手工業に全力を投入せざるを得なかったのに比べ、カルタゴには昔から農業経営というみちがあった。

 北アフリカ一帯は、今では雨も少なく緑にも恵まれない地方に変わってしまったが、古代では全くそうではなかった。

 カルタゴ人の農業経営能力は優れていたが、その能力を十分に発揮できる環境にも恵まれていたのである。

叉、カルタゴ人は一方では、フェニキア民族の伝統を継承して、優れた商・海洋民族でもあった。

 


★★★
経済大国・・・通商国家「カルタゴ」

            カルタゴ人と日本人 

アレキサンドリアに生まれたローマ時代の歴史家・アッピアノスは語る。
「カルタゴ人は隆盛な時には冷酷で傲慢であり、ひとたび逆境に陥ると卑屈になる。」・・と。

 どこかで聞いたことのある評言だ。
世界の一部で語られていると思える日本人評にそっくりではないか。
カルタゴ人は文句なしに、あっぱれなエコノミック・アニマルだったといえよう。

 彼等は2000数百年前に当時の世界の中で、地中海からアフリカ大陸の北岸まで足を伸ばすその情熱に置いて、その商法において、ぬきんでた商人だったのである。

当然、彼等は他の民族からは異様に思われ、不気味な連中と目されていた。
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# by kenji1942 | 2008-05-13 12:28 | ローマ帝国の興亡
  ローマとカルタゴ・・・・2

 ローマとカルタゴは、第一次ポエニ戦役の勃発した紀元前264までに全くの没交渉であったわけではない。
史実に残る最初の協約は、ローマが共和制に移行した直後の紀元前508年に結ばれている。

 この段階では、ローマ側の圧倒的な不平等条約を結んでる。
カルタゴ人が「ローマ人はカルタゴの許可なくしては海で手も洗えない」と豪語しているが、すでに海運・通商大国であったカルタゴとの力関係を考えれば、当然であったのであろう。

 カルタゴ軍では、兵士と中隊指揮官までは他国人の傭兵に頼るが、総指揮はカルタゴの貴族がとる決まりになっていた。

 傭兵の利点は、兵士が戦闘で死んでも他国からの傭兵であるから自国の民の数には影響しないことでもある。


★★★

経済大国・・・通商国家「カルタゴ」
           盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわり

 この言葉は「平家物語」の作者が語るとおりに歴史哲学の基本命題である。

「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
たけき者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」

 「永遠のローマ」も決して永遠ではなかった。
そのローマの力の前に、カルタゴはわずか数百年で繁栄の歴史を閉じた。

ローマとカルタゴ。
この両国の運命ほど、「盛者必衰のことわり」を如実に示す例は他には無い。

 長命だったローマ、あまりに短命だったカルタゴ。
対照的ではあるが、両国の終末は避けられなかった。
所詮、「永遠」の栄華などというものはあり得ないのである。
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# by kenji1942 | 2008-05-08 16:15 | ローマ帝国の興亡
             ローマとカルタゴ・・・・1

カルタゴ(羅:Karthago、英:Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖(en:Lake of Tunis)東岸にあった古代都市であり、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっている。

「カルタゴ」は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart-Hadasht=「新しい町」)に由来し、カルタゴ語では母音を抜いてQrthdstと綴る。アラビア語表記は قرطاج 


カルタゴは紀元前三世紀半ばには、すでにローマ領に接するシチリアの西半分を勢力下においていた。

 シチリアの東半分にはシラクサとメッシーナが健在で、ローマとカルタゴの間のクッションの役割をしていた。

 このような時代背景の時、紀元前264年、ローマの元老院は前例の無い難問を前にして苦慮していた。


 メッシーナが、シチリア第一の強国・シラクサの侵攻の矢面に立たされたため、ローマに救援を要請してきたのである。
メッシーナの人々はカルタゴに支援を求めるよりもローマを頼るほうを選んだのである。

 だが、頼られたローマは迷っていた。ローマ人は法を尊重する。
同盟関係にある友邦から救援を頼まれれば、応ずるのが義務だがメッシーナとは同盟関係にない。
 
 その上、狭い海峡とはいえ、シチリア島のメッシーナに行くには海を渡らねばならない。
農牧民族であるローマは軍船はおろか輸送船団さえ持っていなかった。
つまり、ローマの軍団は、いまだ一度も海をわたったことがなかったのである。

 しかし、ローマがメッシーナの要請を断れば、メッシーナはカルタゴを頼るのは明白であった。
ローマ人ならば足踏みしてしまうメッシーナ海峡も地中海最強の軍船団を持つカルタゴにとっては問題にならない。

 メッシーナがカルタゴの手に渡るということは、ローマ人にすれば、イタリア本土とシチリア島の間に眼に見えない橋が架けられることを意味していた。

 カルタゴがメッシーナを手中にするとなると、大変な事になる。
カルタゴはアテネが衰退したこの時代、地中海第一の海運国であった。
もしも、カルタゴがメッシーナも基地にするとなると、南イタリアを囲む海域の制海権は、もはや
カルタゴのものと思わざるを得ない。
 
 そうなっては、ローマを盟主とする「ローマ連合」諸都市の安全にとって由々しき大問題である。

迷ったローマ元老院は兵役該当者で構成されている市民集会に決議を求めた。
そして、市民集会がくだした決議は、メッシーナ救援要請の受諾であった。

 しかし、参戦を決めたとはいえ、ローマ人は当初、この参戦が第一次戦役だけでも23年間も続く事になるとは、叉、カルタゴ(フェニキア人)との正面きっての対決になろうとは考えてもいなかったのである。

 かくして、世に有名な「第一次ポエニ戦役BC・264」の勃発である。

★★★
通商国家・・・経済大国・「カルタゴ」・・・

カルタゴは北アフリカにあり、地中海を挟んでローマの対岸にあって現在のチュニジアの地がそれである。
正確には「カルト・ハダシュト」・・すなわち「新しい都市」と言う意味であり、
今から2000年以上も前に北アフリカにあって、地中海世界で繁栄を誇った「通商国家」である。

この国と最初に張り合ったのはギリシャであった。・・が、そのうち、ようやく力を蓄え、軍事大国にのし上がったローマがカルタゴの相手を引き受ける。

そして、三度にわたる挑戦・応戦の結果、ローマはついにカルタゴを粉砕し、地上から文字通り抹殺してしまう。

世に言う所の「ポエニ戦争」である。

この「経済大国」・カルタゴこそが、「ローマによる平和」を脅かす最大の敵であると見なされたからである。


 
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# by kenji1942 | 2008-05-07 10:51 | ローマ帝国の興亡
          ローマは遥かなり

 日本の諺で「栴檀は双葉より芳し」というのは、イタリアにおいては「薔薇ならば薔薇の花が咲くだろう」と言う。

 知力ではギリシャ人に劣り、体力ではケルト(ガリア)やゲルマン人に劣り、技術力ではエトルリア人に劣り、経済力ではカルタゴ人に劣っていたローマ人が、これらの民族に優れていた点は、何よりもまず、ローマ人が持っていた開放性にあったと言える。

 古代のローマ人が後世の人々に遺した真の遺産とは、広大な帝国でもなく、二千年経ってもまだ立っている遺跡でもなく、宗教が異なろうと人種や肌の色が違おうと同化してしまった、彼らローマ人の開放性なのである。

 ローマ戦士の軍靴の響きはとうの昔に消え、白亜に輝いた建物の数々も瓦礫の山と化した現代になってなお、人々が遠い昔のローマを、憧れと敬意の眼差しで眺めるのを止めない理由である。

 翻って我ら現代人を見渡せば、あれから二千年が経っていながら、宗教的には非寛容であり、他民族や他人種を排斥し続けるのをやめようとしない。

 まさに「ローマは遥かなり」である。
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# by kenji1942 | 2008-05-06 09:44 | ローマ帝国の興亡
           ローマ人とアレクサンダー大王

 組織も国も「新しい血」を導入しなければ衰退し滅びる。

 ローマ人はケルト族の襲来の時もサムニウム族との40年に及ぶ戦争でも、南イタリアのギリシャ植民国家との10年におよぶ戦争でも、ローマ市民の血は流され続けるのである。

 この傾向は永く変わらなかった。
第二次ポエニ戦役の当時、カンネの戦いで、ローマはカルタゴの英雄・ハンニバルに完膚なきまでの敗北を喫する。

 このとき、6千のローマ騎兵のうち生き残ったのは370騎、8万のローマ歩兵のうちで3千の兵しか生き残れなかった。

 それでも尚、ローマは再起できたのである。
このときの敗戦に限った事ではないが、敗北を喫した後のローマ人の態度は時代を超えて次の三点に要約される。

 第一に、敗北の将は罰せられない
現代人なら、失地挽回の期待を与えるためと考える所であるが、ローマ人は違った。
ローマ人にとって自分の勝利は、自分の属する共同体が勝ってはじめて成就する。

 それゆえ共同体内で自分に課せられた任務に失敗した人間は、身も世もない恥辱に苦しむのである。

 つまり恥に苦悩すると言う罰を充分に受けたということなのである。
名誉心を徳の第一と考えたローマ人にとって、名誉を失うことがなによりも重い罰になるのである。
したがって、 解任したり罪に問う必要はないのである。

 第二は「新戦術」の導入である。
敵の勝利と味方の敗北の原因を徹底的に検討し新たなる戦術を考案する。

 第三は、「ローマ連合」の拡大と確立である。
ローマとの同盟関係を地方に拡大し、新たなる「血」の導入に励む。

 ローマ建国時の基本戦略である、新しい血を導入する事を忘れなかった、ローマ人の考え方の成果である。

 このことはギリシャにもエジプトにもカルタゴにもエトルリアにも、全く見られない、ローマ人の「哲学」であったと言える。

 世界史上でも、この「新しい血の導入」の有効性に着目し、それを積極的に推し進めたのは、ただ一人英雄・アレクサンダー大王のみである。

 ローマにとっての無常の幸運は、ローマの勃興期と同時期に生まれたマケドニアの風雲児・天才・アレクサンダーの視線が、ローマのある西方ではなく、、東・オリエントに向いていたことである。

 もしもアレクサンダー大王が、東方に攻め入らずに西に向かっていたら興隆途上のローマはどうなっていただろうか。
歴史の「イフ」は禁句であるとされているが、興趣の尽きないところである。

★★★
アレクサンダー大王

BC356~323年
古代マケドニアの英雄
東方遠征によって空前の大帝国を建設,ヘレニズム時代を開いた。アレクサンドロスともいう。

前4世紀に力をのばしてギリシャ全土をしたがえた,マケドニア王フィリッポス2世の子。
アリストテレスを家庭教師として育った。
19歳で王位をつぎ,前334年,昔からのギリシャの脅威であるペルシャ帝国を征服の軍をおこした。

 軍事的才能と,密集歩兵隊の力でペルシャ軍をやぶって小アジアを平定,エジプトもしたがえた。
前330年にはペルシャ帝国をほろぼし,さらにインドまで進んだ。

東方に発展したギリシャ文化は,ヘレニズム文化とよばれインドをへて中国や日本にも影響をおよぼした。
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# by kenji1942 | 2008-04-16 11:24 | ローマ帝国の興亡
                ローマ元老院
 紀元前753年。
ローマ元老院の始まりは、ローマ建国の父・ロムルスが百人の長老を招集したことによる。
この百人の率いる家族がローマ貴族のはしりであったとされる。

 それが建国後の紀元前250年ごろ、つまり500年後には、死に絶えたり後継男子に恵まれなかったりして五分の一に消滅してしまったのである。

 ただし、その間元老院議員の数は三百人に増員されているから、元老院という共和制ローマの心臓部を形成するエリート達に占める建国以来の名門貴族の割合は、十五分の一に減ってしまったと言う事である

 かくも甚大な減少は、その間ローマがせざるを得なかった絶え間の無い戦闘が、指導者階級に属するこれらの人々に、他のだれよりも多い犠牲を強いたことによるのである。

 この事態がありながらローマの支配階級に属するローマ元老院の議員数は減ってはいないのである。
政府の要職や元老院の議席を平民に解放することで、ローマは常に新しい血を供給することができたからである。

 ローマの支配階級に入れる基本的条件は、ただ単に、ローマ市民権の所有者、であったからに過ぎないのだから。
つまり、ローマの市民権さえ持っていれば、氏素性は問わず能力次第ということなのである。

 ケルトショックによる蛮族の襲来で恐ろしい体験をした結果ではあるが、ローマが再起できたのは、常に新しい血を導入する事を忘れなかったローマ人的考え方の成果である。

 まさにローマの叡智のなせるわざと言える。
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# by kenji1942 | 2008-03-03 18:21 | ローマ帝国の興亡
          ローマの市民権の定義

 ローマ人の市民権に対する開放性は、二重市民権、つまり二重国籍を認めたことで証明されている。

 ローマ連合内の同盟国の誰かが、ローマの市民権も取得したいと思えば、この古代ローマの時期では完全に認められていた。
しかも、その人は自分が属していた地方の市民権を捨てる必要も無いのである。

 ナポリ市民でありながら、ローマ市民にもなれるわけである。
この二重市民権制度もまた、同時代の他国に類を見ないローマ独自のシステムであった。

 つまり、この時期のローマ人は自国の市民権を他国人に与えるのに、大変に鷹揚な民族であった。
それは、ローマの軍団がローマの市民権所有者のみで構成されていたからでもある。
おかげで、アテネやスパルタの軍事力は万の単位に留まったのに、ローマは十万単位の兵力を持つことが出来たのである。

 ローマ市民権の定義

権利
①不動産・動産を問わず、すべての保有財産の保証。そしてそれらの売買の自由。
②選挙権と非選挙権を有することから、ローマの国政に参加する権利。
③法にのっとった裁判を受ける権利とともに、それによって死刑を宣告されても、ローマではこれだけでは充分でなく、市民集会に訴える権利、つまり控訴権を有した。
これは事実上、ローマ市民権所有者の死刑執行を大変まれなものにしたのである。

義務
①17歳から45歳までは現役で、それ以後も60歳までは予備役として、軍隊につく義務があった。
これは「血の税」と呼ばれたもので、市民権のもう一つの義務であった納税の代わりでもある
間接税がもっぱらであった古代の税制では直接税は軍役で払うのが普通であったのである。
 
 金を払って軍務を免れるやり方は、法によって許されなかったと言うよりも不名誉なことと考えられていた。
経済的な代替行為は、市民権を持たない為に軍務につく義務の無い非市民か、ローマ人の中でも裕福でない子のない女にのみ課された税であった。

 同盟国でも属州でも、年貢金と言う形での直接税を払うよりも、兵力提供に応ずるほうが、名誉ある協力の仕方であると思われていた。
ローマにとっても資金協力よりも兵力提供の方が喜ばしい事であった。

叉、この時期、つまり、前四世紀半ばに確立した「ローマ連合」の考え方である処の、
「ローマは敗者を隷属化するよりも、敗者を「共同経営者」にするという、当時では他国に例を見ない政略を採択した事とあわせて、後世に有名になる「分割し、支配せよ」の考え方の誕生であり、それゆえにこそローマの強大化が実現していくのであった。
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# by kenji1942 | 2008-02-26 20:06 | ローマ帝国の興亡
            ローマ人の敗戦処理方法

 紀元前390年のケルト来襲はローマの負けであった。
完膚なきまでの敗戦、負けっぷりに良いも悪いも無く、敗北は敗北である。

 ケルト族来襲はローマの大敗北に終り、その原因を追究することにより大いなる教訓を得て対策を練り、後の強大なローマ大帝国を築く事となる。

  ローマ人は敗北からは必ず何かを学び、それをもとに既成の概念に捕らわれないやり方によって自分自身を改良し、そのことによって再び立ち上がる性向があった。
 
 重要なのは、このケルト来襲の敗北からどのようにして立ち上がったか、である。
つまり敗戦処理をどのようなやり方でしたのだろうか、と言うことである。

 その一つは、ローマ国内の二分烈の愚かさへの対応である。
貴族派と平民派に二分烈していたからこそ、北方の蛮族にすぎないケルト人によいように翻弄されたと言える。

 ローマ貴族と平民の権力争い。
日本で言えば、武士と百姓・町民。革命でも起きなければ解決できそうに無い対立。
ローマ人の叡智は、この深刻な対立関係を、貴族が平民を内包する関係に変えたのである。

 国政の要職すべてを、祭職さえも全面的に平民出身者に解放すると言う政治改革を断行したのである。

 結果はすぐに現れた。
ここにローマは、ローマ人の持つエネルギーのすべてを投入できる、つまり国力を最大限に確立できる、体制を確立したのである。

 叉、この時期、つまり、前四世紀半ばに確立した「ローマ連合」の考え方である処の、
「ローマは敗者を隷属化するよりも、敗者を「共同経営者」にするという、当時では他国に例を見ない政略を採択したのである。

 そして、これこそ、後世に有名になる「分割し、支配せよ」の考え方の誕生である。

 ギリシャ人の歴史家が言う。
「ケルト族来襲の惨敗を受けて、この時を境にローマの興隆がはじまった。」・・と。

 まさに、「雨降って地固まる」
このことは、個人でも、民族でも、国家でも同様なことが言える所以である。
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# by kenji1942 | 2008-02-22 22:08 | ローマ帝国の興亡
 古代ローマの官職  独裁官(ディクタトール

共和政ローマでは、戦時の非常事態、疫病の大流行、内乱など、ローマの非常事態に任命される官職で、臨時の独裁執政官を意味する。 他の官職が選挙で選ばれるのに反して、独裁官だけは、二人の執政官のうちの一人が指名するだけで成立した。

 定員は一人で任期は6ヶ月と短いが、独裁官が、決めたことは誰も反対できないと決まっていて、執政官クラスの能力に優れた経験豊かな人物が指名されるのが常であった。

 古代ローマの官職  法務官(プラエトル)   
執政官のすぐ下に位置して、司法関係を担当する高級政務官職。
由来としては、元々執政官の3人目 の同格者として設定され、ローマに残って国政を指揮する役割を担っていたと考えられる。

 執政官不在時の首都ローマでの市民集会は、法務官によって召集され、彼が議長を務めた。

 
 その他に、会計検査官(クワエストル)・財務官(ケンソル)・按察官(エディリス)・護民官(トリプーヌス・プレビス)・元老院(セナートゥス)がある。
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# by kenji1942 | 2008-01-25 20:03 | ローマ帝国の興亡