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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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光秀の憂鬱

 天下政権を効率よく運営していく為には、常に無能者を選別し、見捨てていかなければならない。
信長は光秀の行政官僚としての手腕を高く評価していた。

 元来、光秀は城攻めは巧みであったが、野戦は苦手であった。
城攻めは、物資の補給をやって居れば良いので行政官僚の光秀には向いている。
だが、野戦は戦況がいつどう変わるか予断を許さない為、大将が殺される可能性が常にあった。

 光秀は秀吉に較べ臆病で野戦を避けたがる傾きがあり、このため次第に秀吉に取って代わられていくかに見えていた。
 
 光秀の禁裏・畿内地侍衆に対する外交折衝の巧妙さによって,信長は多大の利益を得てきた。
しかし、光秀は天正10年には55歳になっていて当時としては老境に入り晩年を迎えようとしていた。

 信長は人材の登用には門閥をあげつらうことなく、才幹次第では小身の侍を一挙に大名に取り立てるが,必要でなくなった者はたちまち遠ざけた。

 信長は光秀の賢ぶって有職故実を重んじようとする態度がきらいであり他の家臣が信長を尊敬して言われるままに働くのと違い、光秀が批判のまなざしを向けてくるのを知っていた。

 光秀は四国征伐に際して,大将でなくても副将に命じられると自他共に予想していた。
ところが、長宗我部氏の征伐が発表されると、大将は神戸信孝で副将は丹羽長秀が任じられ光秀は外されたのである。
このことは光秀に対する信長の寵愛が去ったことを証明していると世間も見るだろう。

 羽柴秀吉が大抜擢されて行くかたわら、佐久間信盛・林通勝等の功労あるものが追放されている。
そのような情け容赦のない信長の人使いを知っているので光秀は身に迫る危機感を強めて行ったのである。
# by kenji1942 | 2011-02-06 20:25 | ブログ 信長
光秀と長宗我部(ちょうそかべ)元親

 光秀が信長に重臣として優遇されている時、ライバル・秀吉は苦心惨憺しながらも播州を制圧し、備中を押さえ、その前に因幡・但馬・美作を制圧しつつあった。

 そうなってくると今度は秀吉の方が光秀の地位を追い抜いてしまう。
光秀の40万石に対して、秀吉の支配した中国地方の国々は50万石を超えていた。

 また、秀吉には子供がなく、信長の子の秀勝を養子に貰っていた。
秀吉は長浜在城のとき、南殿という愛妾との間に男女二人の子供をもうけたが、いずれも早逝した。
妻のおねに毒殺されたと言う説もある。

 信長は秀吉に所領をやれば、いずれそれが秀勝のものになると考え、惜しみなく領地を秀吉に与えるという構図になっていたこともあり、 光秀は秀吉に先んじられ、その差をちじめられないことを自覚せざるを得なかった。

 その頃、光秀は信長政権と土佐の戦国大名・四国の覇者・長宗我部氏を結びつける外交官として四国政策に深く関わる事となった。

 天正3年(1575年)7月・長宗我部元親は土佐の国を統一した。
元親は引き続き阿波を本拠とする三好勢力の攻略に着手するが、遠交近攻策により、当時天下の実権を握りつつあった織田信長に接近する。

 元親から信長への取次ぎを一貫して光秀が行っていた。
これは光秀の重臣・斉藤利三の実兄・石谷頼辰の妹が元親の正室であったことによる。
信長が元親と友好関係を結んだのは、阿波や讃岐で抵抗を続ける三好一族や、瀬戸内海の制海権を握る毛利氏に備える為であった。

 天正8年(1580)12月に元親は、大坂から本願寺を退去させたことを祝して、信長に名産の伊予鶏を献上しており、この時点まで両者は友好関係にあり、天正3年以来、元親は四国の最大勢力である三好氏の掃討に取りくんでいた。

 天正3年4月三好康長は信長の軍門の下り河内の支配を任されていたが、長宗我部氏から阿波の奪還を図りつつあり、その取次ぎは羽柴秀吉が行っていた。

 これは当時毛利氏と対峙していた羽柴秀吉が毛利氏の村上水軍に対抗する為、三好氏の水軍力が必要であったので、信長に巧みに働きかけた結果、天正9年6月信長は元親に対して敵の三好氏を援助して阿波の支配をせよと言う、朱印状を発することとなった。

 羽柴秀吉を取次ぎ者とした三好氏の巻き返しにあい、長宗我部氏は苦境に立たされる。
当然怒った長宗我部元親は直ちに織田信長と断交する。

 このことは光秀が担当する四国政策の大転換であり、光秀を苦しい立場に追い込む事となった。

 つまり、これは信長重臣間の派閥抗争の一環と考えられ、羽柴秀吉の凄いしたたかな異才が光るところであり、織田家随一の重臣とみなされていた光秀の強力なライバルとして秀吉が急速に台頭してきた場面である。

 天正10年2月信長は武田氏を滅亡させたのちに、長宗我部氏の掃討戦を行う決意をした。
四国担当外交官として深く関わった長宗我部氏が敗北すると言うことは光秀の信長政権内部における発言権の決定的な低下であり、次には左遷人事が予想された。

この時期になると光秀には信長の手法が見えていた。
それは信長に忠誠を尽くしても一旦政策が変更されると長宗我部氏のように、早くから信長に従い、且つ落ち度の無い大名でさえあっさりと捨てられるのである。

信長の四国攻撃を前にして光秀は人生最大の危機に直面していたのである。
# by kenji1942 | 2011-02-06 20:17 | ブログ 信長
光秀と義昭

 足利義昭が裏面で反信長作戦を実施する段階で、信長の戦国大名としての力量を認める光秀とは段々利害が相容れなくなっていった。

 そして義昭の宇治槙島城の挙兵をもって、光秀は義昭の主従関係を解消し信長一本となる。
戦国時代の主従関係は一種の契約でドライでもあったから、非力なボスに見切りをつけた部下が他の実力者に乗り換えるのは何の不思議も無いことであった。

 光秀は義昭より信長の方が武家を束ねるリーダーとしての器量が勝っていると判断したのである。
 ましてや信長は義昭追放後もその子息を将軍候補として奉じていたから幕府衆の多くも安心して京都にとどまっていた。

  特に坂本城は秀吉の居城である長浜城とともに、安土城の両翼ともいわれるような重大な位置にあって京都ののどくびを押さえている。
これを光秀が任されて、京都の軍政を指揮していた。
いわば、光秀は近衛師団長であり、近畿軍管区司令官であったのである。

 光秀は、かっての反信長勢力、、、今は制圧されて従順になっているが、情勢しだいでは信長に充分そむきうる動機のある公家社会、寺社勢力、信長に全く任用されない地侍勢力などとの折衝役を任されていた。

 信長は光秀の政治財政の才にくわうるに、畿内諸豪族との円満な対人関係を認めていたのである。

 これによって光秀は近江国滋賀郡と丹波・丹後の経営を担当するとともに、大和から摂津更に四国地域にも影響力を持つ織田家随一の重臣としての地位を獲得する。

 一方、信長の諸将のなかで、北国管領になった柴田勝家は最右翼にいたが、北国探題として越前北の庄に赴いた。
また滝川一益は関東に赴任したので、織田政権の中枢部で、トップにいたのが光秀で、それに次ぐのが西国征伐に赴いている秀吉である。
 
 光秀は、信長政権と土佐の戦国大名・長宗我氏を結びつける外交官として四国政策に深くかかわることにもなった。

 明智光秀が信長に仕えて僅か13年の快挙であった。
# by kenji1942 | 2011-02-06 07:00 | ブログ 信長
光秀・重臣への登用

 光秀は実際に野戦で戦うというよりは、行政官としての能力が優れていた。
光秀は京都の公家達と密接に接触していたが、もともと学問があったので朝廷、公家と交渉する手続きについては、細川藤孝らを通じ心得ていた。

 だから信長は、織田政権の京都の軍政を羽柴秀吉とか京都所司代であった村井貞勝に任せているが、外交の面で活躍したのは光秀である。

 さらに光秀は徴税官僚としての能力を買われていた。
信長の命令は峻厳を極めたが、それを婉曲に相手に伝え、しかも信長よりなお辛らつな方法で税金を取り立てた。

 一方、野戦で信長の手足となってコマネズミのように働いていたのが、羽柴秀吉であるが、この時期光秀は秀吉よりいつも二年の差をつけて出世をしていた。

 光秀は元亀2年(1571年)9月の比叡山焼き討ちののち信長から恩賞として近江国滋賀郡に所領を与えられ名城・坂本城を築く。

 光秀は信長の家来になって僅か12、3年のうちに、四十数万石の身代にのし上がる。
山陰地方を制圧した後、坂本城と亀山城の二つを任されたが、どちらも京都防衛の拠点として重要な場所である。

  これによって光秀は、当時の織田家随一の重臣である佐久間信盛につぐクラスの仲間入りをすると言う抜擢を受ける。

 京都の東を守る要衝の地に位置する城を預けられたと言うことからも当時の光秀が如何に信長から信頼されていたのかが判る。

 後に光秀は丹波亀山城(京都府亀岡市)を築いて丹波支配の拠点とするが、光秀終生の本拠地は坂本城である。

 この時期、光秀は琵琶湖の船運を握っていた堅田衆を組織しているが、重臣・猪飼甚介は堅田水軍の棟梁であった。

 堅田衆は真言門徒でもあったから、光秀は堅田衆と一向宗真言寺院との結びつきを切り離すことに腐心した。

 
# by kenji1942 | 2011-02-06 06:59 | ブログ 信長
明智光秀
 永禄11年(1568年)7月、信長は美濃の立政寺(岐阜市)に足利義昭の一行を迎えた。
この対面を実現させたのは、義昭の側近である細川藤孝と明智光秀であった。
      
 岐阜に義昭を迎えた信長(35歳)はただちに上洛戦の準備に入る。
ここから光秀の栄光が始まる。

 明智光秀は出自が明確でない人物である。
岐阜の明智氏の一族であったと言われるが、光秀の父親は一応明智氏の家来であったかも知らないが、一族とは考えられない面もある。
他にも小浜の鍔師の息子であったと言う説もある。

 ただ光秀は衆にすぐれた才人で、有職故実に詳しい学研肌の人であり、鉄砲の技術を取得した有能な射手でもあった。
これらの事実から推量して、武人として卓抜な能力の持ち主であったと考えられ容姿は水際立っていて、折り目正しく上品な人柄だったと言われる。

 光秀は当初朝倉義景の家来になって一揆征伐で大いに働いて認められ禄500貫(4500石)を貰っていたが、義景のところにあらわれた13代将軍足利義輝の弟の足利義昭の家来になり、その後信長の家来となったもの。
# by kenji1942 | 2011-02-05 20:29 | ブログ 信長