天下政権を効率よく運営していく為には、常に無能者を選別し、見捨てていかなければならない。
信長は光秀の行政官僚としての手腕を高く評価していた。
元来、光秀は城攻めは巧みであったが、野戦は苦手であった。
城攻めは、物資の補給をやって居れば良いので行政官僚の光秀には向いている。
だが、野戦は戦況がいつどう変わるか予断を許さない為、大将が殺される可能性が常にあった。
光秀は秀吉に較べ臆病で野戦を避けたがる傾きがあり、このため次第に秀吉に取って代わられていくかに見えていた。
光秀の禁裏・畿内地侍衆に対する外交折衝の巧妙さによって,信長は多大の利益を得てきた。
しかし、光秀は天正10年には55歳になっていて当時としては老境に入り晩年を迎えようとしていた。
信長は人材の登用には門閥をあげつらうことなく、才幹次第では小身の侍を一挙に大名に取り立てるが,必要でなくなった者はたちまち遠ざけた。
信長は光秀の賢ぶって有職故実を重んじようとする態度がきらいであり他の家臣が信長を尊敬して言われるままに働くのと違い、光秀が批判のまなざしを向けてくるのを知っていた。
光秀は四国征伐に際して,大将でなくても副将に命じられると自他共に予想していた。
ところが、長宗我部氏の征伐が発表されると、大将は神戸信孝で副将は丹羽長秀が任じられ光秀は外されたのである。
このことは光秀に対する信長の寵愛が去ったことを証明していると世間も見るだろう。
羽柴秀吉が大抜擢されて行くかたわら、佐久間信盛・林通勝等の功労あるものが追放されている。
そのような情け容赦のない信長の人使いを知っているので光秀は身に迫る危機感を強めて行ったのである。